昨年、山県有朋の評伝が話題になった著者が5人の近代日本の政治家を取り扱った評伝集である。いずれも非常に興味深いものであるが、ここでは原敬について取り上げることにしよう。
原は岩手県盛岡市に生まれた。薩長藩閥政府の時代、東北諸藩の出身者は「白河以北一山百文」といわれた中に育った。16歳で上京以来、原はどんな困難をも耐え忍ぼうと決心し、その決心を守ってきたと後年言った。また、親、兄弟、親戚、友人なども頼みにせず、全ては自分一個の勉強次第であるとして生きたという。
司法省法学校などに学び新聞社に入るなどしたが、長州の井上馨との関係ができ外務省に入る。次いで、井上農相の下、農商務省参事官となる。次の農相が陸奥宗光で、薩長藩閥政府の中で昇進しながら非薩長閥出身でなかった才能ある二人は、お互いに極めて高く評価し合い緊密な関係となる。
しかし、陸奥は病没。原が天津領事をして以来の関係があった伊藤博文が立憲政友会をつくると誘われ入会。伊藤は原を「将来国家の柱石ともなる可き人物」と見ていたが、結局、第四次伊藤内閣に逓信大臣として入閣、東北出身最初の大臣となった。
西園寺公望が政友会の総裁として政権をとると、それを実質的に担ったのは原であった。西園寺は指導力の欠けた人で、重要なポストを長く続けたくない、辞めたいとしきりにこぼすので、原はそれを押し留めて政権を維持させるのに、非常に苦心した。
昭和になって、今度は近衛文麿が同じようにすぐに内閣を投げ出そうとするのを西園寺が元老として困惑することになる。西園寺自身がかつてはそうだったわけで、「欲のない政治家」というものについてつくづくと考えさせられる。
政友会が政権を維持するにおいて、また原自身の政権が近づくにつれて、最大の問題は強大な勢力を誇る山県との関係だった。そうした中で原は、一方では山県の勢力の地盤を少しずつ切り崩して政友会の党勢を拡張しつつ、他方では山県との関係の調整努力も周到に怠らないという二正面作戦をとった。