2024年12月22日(日)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2013年9月10日

 1989年の天安門事件などの際に、「八大元老」として権力を誇った薄の父親・薄一波(元副首相)は、1931年に国民党に逮捕され、死刑も内定したが、不屈の精神で5年半の獄中生活に耐えた。さらに文化大革命の嵐が吹き荒れた67年3月にも監獄に送られた。

 筆者は、拙稿「『毛沢東』になれなかった薄熙来の悲劇」(2012年4月11日)にこう記した。以下、引用である。

父親の迫害、自身に重ね合わせ

薄一波の娘・薄小瑩は中国誌『環球人物』(11年11月)に当時(文革時の迫害)の様子をこう語っている。

「父は決して屈服しなかったので、『武力批判』は日常茶飯事だった。12年間に及ぶ迫害のうち、8年間は独房で孤独の身となり、家族との音信も途絶え、当時70歳近い老人だったが、ののしられ、侮辱され、殴られた」。薄一波の妻、つまり薄熙来の母親は北京に護送されてくる汽車の中で迫害され、死亡するという悲劇が起こった。

少年・薄熙来は文革初期、紅衛兵だった。しかし父親の失脚に伴って「狗仔子」(子犬め)と蔑視された。そして68年1月、19歳にも満たない薄熙来は父親に連座し、5年近く自由を奪われる生活を送ったとされる。

娘・薄小瑩の回想によれば、薄一波は人民日報の切れ端にその日考えたことを書き連ねて「日記」としていたが、67年2月5日にはこう記していた。

「ここ数日間、妻の死を除き、子供たちはどんな生活を送っているか、ということばかり考えている」。その直後も「私の頭の中は絶えずあなたたち(家族)だけのことを思っている」と綴っている。

薄一波は、文革中に相次いだ自殺を拒み、頑強な精神を持ち続け、77年には子供たちに「心にやましいところは全くない」と手紙を送っている。結局、改革・開放が始まった78年暮れになってようやく名誉回復を果たした。息子・薄熙来が北京大学に入学したのも78年2月で、既に28歳になっていた。

解任後、党中央規律検査委の調査を受ける薄熙来は、権力闘争で失脚した父親のことを考えているに違いない。そして政治闘争の渦中にいる自分と父親を重ね合わせているだろう。

「微博中継」という絶好のチャンス

 薄は公判で「権力闘争の犠牲者」を演じた。「太子党」(高級幹部子弟グループ)として共産党の歴史を熟知する薄熙来は、いずれ「変化」の時が来ると判断したのだろう。


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