北京や上海に住む人々に問い合わせても「いい総理でした。残念です」という言葉以外にあまり聞こえてこない。「政治に関してはコメントしたくない」という人もいた。死去の報道直後にあれほど大きかった追悼の声は、まるで「目に見えない力」によって一気にかき消されてしまったかのようだ。
あまりにも急なことだったため、暗殺説なども一部で飛び出している。李氏が上海の高級ホテルのプールで水泳中に心臓発作を起こしたことについて「主治医が24時間、健康チェックしていたはずだ」「8月には敦煌の莫高窟を見学していて、とても元気そうだったじゃないか」などの声があり、疑問が残っているからだ。
むろん、持病があったとの説もあり、そうした声は単なる憶測に過ぎないかもしれないが、そうした声があがる背景には、李氏が「エリート中のエリート」であっても、不遇の晩年を迎えたことがあり、彼に対する同情心や、現在の体制に対する不安感が広がっているからかもしれない。
優秀がゆえに歩んだ政治への道
李氏は1955年、安徽省の一般家庭に生まれた。幼い頃から成績優秀で、78年に北京大学に進学。法律や経済を学び、博士号まで取得した。
中国の中高年のエリートなら誰でも知っていることだが、文化大革命で中断していた高考(大学入学統一試験)が約10年ぶりに再開された77年、78年に大学に進学できた人は、特別に「77級」(チーチージー)、「78級」(チーバージー)と呼ばれ、一目置かれるスーパーエリートだ。李氏もそんな一人だった。
英語も得意で、卒業後は海外留学を目指していたが、中国共産党の青年組織である共産主義青年団(共青団)の幹部候補生に抜擢されて、図らずも政治家の道を歩むことになった。習氏が老幹部の子弟である「太子党」だったのとは対照的に、実力で出世した、たたき上げの人物でもあった。
胡錦濤氏などの後ろ盾もあり、河南省書記などを経て2007年から政治局常務委員入り。12年の習近平指導部が発足するときにはナンバー2となった。
習氏の最大のライバルと言われ、中国経済の市場化を目指す経済政策「リコノミクス」を推進した。財政出動の抑制などを柱に、手腕を発揮しようとした時期もあったが、「習一強」体制が整えられるなかで、次第に勢いを失っていった。