映像が人の印象に与えるインパクト
著者は当時の雑誌などをもとにして、実際に存命していた人々が、映画に登場した人物が実像とはだいぶ違うという印象を受けたことを記録している。天本英世が演じた佐々木大尉などは、本人が存命で、「私はこんなに肥えているのに映画の私を演ずる天本さんはやせっぽちだ」と大笑いしていたとのことである。しかし、われわれこの映画を見た人間には、あの痩せた天本の佐々木大尉以外には佐々木大尉は考えられないと言えよう。
このように、映像のイメージは巨大であることを改めて思い知らされるエピソードに満ちているのが本書の大きな魅力である。
名シーンは史実どおりなのか?
そうすると、なんといっても気になるのはこの映画で取り上げられているそうしたエピソードと実際の史実との関係いかんということになる。この点に関し、著者は45年8月15日に特攻機が飛び立つ児玉飛行場のことについて焦点を絞って叙述している。
半藤一利の原作によると、埼玉県児玉にあった陸海混成第27飛行団基地では、8月14日午後8時に出撃命令を受けた搭乗員が飛行戦隊長の訓辞に耳を傾けていた。そして陸軍爆撃機を改装した雷撃機36機が轟々たる爆音を夜空にとどろかせながら暖機運転を始めていた。彼らは日本の降伏決定を知らなかった。
空襲警報のサイレンの鳴りやまぬ中、飛行団長の野中俊雄少将(肩書きは原作ママ)は、房総沖に遊弋(ゆうよく)する敵機動部隊に猛攻撃を加えるべく、猛訓練の成果を発揮してくれと言い、可愛い部下たちを死地に投ずる決心を固めていた。
そして、児玉町民が陸軍飛行部隊の出撃を知って、日の丸の旗を持って続々と飛行場に集まってきていた。町民もまた、降伏を知らず、ただ必ず神風が吹くものと信じていたのである。
映画はこれをほぼなぞった後、さらに、「若鷲の歌」が響きわたる中、愛国婦人会の襷をかけたおばさんに鉢巻をつけてもらう隊員、戦友の背中を台にしてハガキを書いている隊員、ぼた餅を食べる隊員、町民たちが振る日の丸の旗ごしに握り拳を振って一緒に歌う隊員などが映し出され、哀切を帯びた若鷲の歌は鳴りやまず、死に向かう悲壮な空気で満たされた飛行場の場面が続く。
忘れられない名シーンだが、では、この場面はどの程度真実なのか。
著者は次のように解明している。北沢文武『児玉飛行場哀史』などによると、この日、飛行場の主役は映画に見られた第27飛行団長の野中大佐ではなくその配下の飛行第98戦隊長の宇木素道少佐だった。そして何よりも宇木少佐は玉音放送の翌16日に出撃を試みて飛行場に向かったのだった。16日夜には、隊長を先頭に鉢巻姿・飛行服の第98戦隊員がトラックに乗り、あるいは隊列を組み、隊歌を高唱しながら児玉飛行場に向かう姿が目撃されているのである。「戦争に負けた〝最後の特攻隊〟が今、飛行場に向かうというので、町中が興奮のるつぼだった」という証言があるという。しかし、「その日は暗雲が飛行場ひくくたれさがって飛行機の離陸を妨害した。そしてその夜はむなしくおわった」と宇木は書いている。