矛盾をはらんだ「保守」と「革新」
平成は歴史を〝洗い流した〟
平成の政治が保守派ほど「改革」を唱える、不思議な風潮で彩られたことはよく知られる。1993年に、劇的な55年体制の崩壊を象徴した細川護熙首相の、政界デビューはもともと自民党の参議院議員。仕掛け人となった小沢一郎氏は、幹事長も務め直前まで同党のど真ん中に君臨する政治家だった。
2001年には小泉純一郎首相が、自民党を丸ごと改装して改革をうたうことで、憲政史上にも稀な熱狂的支持を得る。及ばずとはいえ地方から類似の旋風を起こした橋下徹氏も、政界入りの前はテレビ番組の「右派論客」として鳴らした。
「加速主義」と呼ばれる考え方がある。いまの世の中が不満でも、そのしくみに反対したり、ストップをかけるのはダサい。むしろもっとアクセルを踏み込み、もうこれ以上ムリというところまで眼前の潮流を煽り続けることで、初めて社会の全体に衝撃を走らせ、総とっかえすることができる─といった発想だ。
一見矛盾した平成期の「改革する保守」にしても、ある種の加速主義だったと考えれば納得がいく。そうした時代にかつての「革新」陣営、冷戦下の左翼政党が没落した理由も説明がつく。
意外かもしれないが、人類が生んだ最大の「加速主義」の思想家はマルクスである。資本主義を批判したマルクスは、一方で、資本主義の論理と運動を徹底しきることで初めて、共産主義への道筋が開けると考えた。
つまりマルクスにとっては、工業化の力で農村が衰弱するほど、経営者が冷徹に賃金を搾取するほど、資本主義の終わりは早まる。窮乏した労働者が組合を結成し、職場の設備を乗っ取って、自ら生産し分かち合う革命へと進むからだ。
その意味では、保守ではなく左翼の方が「過去よりも未来」を志向するのが本来の姿だ。ところが昭和(戦後)の日本では、この点が通例と違っていた。
社会党・共産党などの左派政党は、むしろ戦争体験という「過去」にこそ存在意義を置いていた。戦前に唯一、弾圧下で反戦を唱えた獄中非転向の神話が、日本では共産党のアピールポイントであり、マルクスの理論はどうでもよかった。社会党の鈴木茂三郎委員長は「婦人よ、夫や子どもを戦場に送るな」の演説で、戦災の傷が癒えない国民の心をつかみ、保守政権との対決路線を定着させた。
逆にいえば敗戦から時がたち、社会から歴史の存在感が薄れることは、日本では保守よりも左翼に打撃をもたらした。平成の間に社会党はミニ政党(社民党)へと凋落し、共産党の党勢も傾いたが、令和に入って惨状はより露骨になっている。
れいわ新選組の山本太郎氏は弁舌家でも、街頭で叫ぶのは「現金配れ」の一択である。政治家となる原点だった、11年の東京電力福島第一原発事故にすらほぼ言及しない。過去を振り返っても票にはならず、支持者を煽るには「いま」のカネの話しかない。そんな打算がにじむ。
階級闘争から「ジェンダー平等」に看板を替えつつある共産党も、すっかり「怪しげな未来」から物を言う党になった。彼らのフェミニズムには、女性史も家族史もない。トイレや浴場を全てジェンダーレスにしても、誰ひとり問題を起こさない空想上のユートピアを基準に、社会の現状が「差別的だ」と叩くだけである。
※こちらの記事は「Wedge」2024年5月号の一部です。