杜氏を使わないというと、1年を通じて画一的、均一的な日本酒を造っていると思ってしまうが、これも違う。
「味は毎回変わっていて、少しでも美味くなるようにいつも努力しています。獺祭ブルーにしてもそうです。土地も、コメも、水も違う。だから最初は美味しくできない。だったら、美味しくない理由は何なのかその原因を探りながら、美味しくなる要素を伸ばす。そうして、美味しくなるためのデータを積み上げていきました」(同)
美味しくない理由を探る中、「施工段階での見えない汚れがあるのではないか」などの想定のもと、全員で設備の掃除からやり直してみるといったことなどを繰り返したという。イメージとは逆に、人が泥臭く、試行錯誤を繰り返しているのだ。
これは日本でも同じだ。山口県岩国市の本社蔵を案内してくれた副蔵長の野中裕介氏は醸造タンクの温度計を見ながらこう話してくれた。
「温度の数値自体は、データで飛ばすことはできます。でも、実際にタンクの前に立って色や匂いを感じることが大切なのです」
他にも、洗米した後、コメに水分を吸わせるための機械を導入したが、廃棄することになったと教えてくれた。産地によってコメの品質が違うので、やはり、「人の手でやるべきだ」となったそうだ。
獺祭NYの松藤氏も「大吟醸を造る酒造会社も増えてきましたが、われわれは、大吟醸しか造っていません。それは、一人の杜氏が造るよりも何十倍もの経験値になっています。それをデータにして、皆で共有する。それこそが、われわれの強みだと思います」と、データ共有の重要性を強調する。
成功するかは分からない
それでも打席に立つ
「獺祭ブルーは、現地向けに度数を2度下げて14%にしています。ただ、『新しい価値を創る』と、カッコいいことを言っても、それがまだ実現できているわけではありません。それでも、現地採用のスタッフたちがイタリアンレストランに飛び込み営業をしてみるなど、既存というよりは新規の開拓を進めています。現状では、課題ばかりと言っても過言ではありません」
桜井氏は、獺祭ブルーの現在地についてこのように率直に語ってくれた。しかし、それこそが獺祭のDNAだ。それは獺祭NYの松藤氏らにもしっかりと受け継がれている。
「(先代の)桜井会長には、『上手くいくかどうかで立ち止まるのではなく、まずはバッターボックスに立つことが大事』と教わり、その思いのもと、仕事と向き合ってきました。まさか自分がニューヨークに異動するとは思ってもみませんでしたが、アメリカでの日本酒の消費量は日本に比べるとまだまだ少ない。だからこそ、伸びしろがあると思っています。こちらの人たちの選択肢の一つとして、日本酒の存在感をもっともっと高めていきたいです」(松藤氏)
桜井氏の父である博志会長は今、日本とニューヨークを頻繁に行き来しながら、松藤氏ら現地スタッフとともに借り上げたアパートで過ごし、精力的に飛び回っているという。博志氏は、倒産寸前まで追い込まれながら、地元岩国では4番手だった蔵元から、未開の東京、世界へと販路を開拓した。上手くいくかは、分からないが、やってみないと何も始まらない。だからこそ、獺祭は全力で走り続けている。