2013年8月、国防大学の公方彬教授が人民網「強国論壇」(党機関紙『人民日報』のBBS:筆者)のゲストとして登場した際に谷俊山の汚職問題を明らかにした。彼によると「谷俊山とその前任という軍高官二人続けての犯罪に民衆は不満」という。権威筋が谷俊山の汚職捜査を明かしたのは初である。
公が言う「前任」とは海軍の王守業元副司令官のことだ。1億6000万元(約25億円)の汚職額と愛人を囲んでいた容疑で2006年に軍事法廷にかけられ、執行猶予付き死刑判決が下された。共通するのは二人とも総後勤部のインフラ・住宅建設部門の長歴任の経験があることだ。
繁華街にある軍用地を払下げ、巨額のキックバックを
谷の実家は河南省濮陽市孟軻郷東白倉村にある。弟の家など3軒が地下でつながり、30メートルの通路になっている。ここに名酒が山のように積まれ貯蔵されていた。家宅捜査は2晩続き、物品はトラックに積み込まれ、深夜になって市内の武装警察支部に運ばれていった。「市民に目撃されるのを避けたかった」ためだろう。しかし、谷はここに住んでいなかった。村トップで党支部書記だった谷俊山の実弟、谷献軍の家も家宅捜査されたが、無駄足だった。既に物品は移された後であり、酒の空箱だけが残っていた。
既に前年の旧正月前に北京からやって来た軍の規律委員会、検察院の捜査員が濮陽軍分区内部宿舎に滞在し、谷の捜査は濮陽中に知れ渡った。旧正月にも捜査チームは留まり、3、4月には党中央規律委員会(日本でいう地検特捜部のような汚職取り締まり機構:筆者)、最高検察院の捜査員も加わって十数人の合同捜査班が組織されて捜査に実質的進展があった。
捜査グループは谷献軍が濮陽で起業した軍用物資メーカーを捜査し、派出所から谷俊山の戸籍資料を取り寄せて照合した。捜査グループは濮陽市の主要幹部、濮陽市高新区責任者にも捜査協力を仰ぎ、谷俊山についての報告書を作成した。12年5月に谷俊山は正式に職務停止となった。
谷俊山は総後勤部のインフラ住宅部事務局の主任、住宅土地管理局局長、インフラ建設住宅部副部長、部長や全軍緑化委員会事務局主任、全軍住宅改革事務局主任などを歴任した。在職期間中に軍の住宅基準は大幅に引き上げられ、軍宿舎は4回にわたり大規模な住宅建設を拡大し、住宅レベル向上が図られた。この過程で繁華街にある軍用地を払下げ、巨額のキックバックを受けたのだ。
北京で谷が目を付けた環状二号線地域の軍用地は数十箇所、マンションは数十部屋に上る。贈り物として考えていたという。上海ではある軍用地を20億元(300億円超)で売却し、その6%が谷の懐に入ったとされる。濮陽で谷一族が土地を奪い取り開発したマンションは悪名高く、谷は不動産業者と結託して土地を横流しして手数料を受け取った。更に上をめざし、パートナー作りにも精を出した。自分の「赤い血統」(共産党の血筋を強調する言い方:筆者)を強めるべく、人を雇って父親の伝記を執筆させ、彼の経歴を誇張し、「革命烈士」にでっち上げた。父親の「革命烈士墓地」さえ造成した。