世界潮流を読む 岡崎研究所論評集

2014年3月14日

»著者プロフィール

 最後に、1964年の中仏国交樹立は、両国間に特別な関係を築くとされたが、実際、中仏協力が進むのは、中国が改革を打ち出してからにすぎない。その頃には、早期に国交樹立したメリットは既に失われていた。

 ド・ゴール将軍は、国交樹立によってもたらされる経済的効果が少ないことは、わかっていたようである。1964年1月31日の記者会見で、ド・ゴールは、「この点、幻想を抱きすぎないよう注意すべきである。」と述べている。

 今日、フランスにとって、最大の貿易赤字国は中国であり、対中貿易に占めるフランスの割合は、ドイツの4分の1にすぎない、と論じています。

* * *

 筆者のフランソワーズ・モンガン女史は、パリ政治学院出身で、台湾国立大学で中国語を学んだこともある、中国、台湾通の学者です。

 上記は、フランスが、当時の西側陣営の結束を破って、中華人民共和国と外交関係を結んで、今年は50周年となるが、それで、別に、フランスは中国との関係で得をしているわけでもない、という冷静な判断を示した論説です。

 ド・ゴールは、1963年には、核兵器に関するナッソー協定参加を拒否、英国のEEC加盟を拒否し、1964年には、NATO要員のパリからの引き揚げを要求し、やがて、NATO軍事機構から脱退し、NATO本部をパリからブリュッセルに移転させました。1964年の中国との外交関係樹立も、アメリカの意向に従わない独立外交の一つとして捉えられていました。

 ただ、それが、中仏関係に特別の利益をもたらしていない原因は、主として、中国の内政、特に1966年から始まる文化大革命によるものだと思います。文化大革命は、少なくともその初期においては、徹底した反帝国主義、反欧米イデオロギーであり、フランス外交の入り込む余地などは皆無でした。西側の対中外交が意義を持ち始めるのは、やはり、文革による権力闘争が一段落した1971年のキッシンジャー訪中の時期を待たなければなりませんでした。そして、その時期からは西側の対中外交はアメリカ主導となります。

関連記事

新着記事

»もっと見る