2025年4月28日(月)

絵画のヒストリア

2025年2月9日

「棟方版画」の原型「大和し美し」

 青森市の貧しい鍛冶職人の家の第六子に生まれ、極度の弱視という肉体的なハンデにくわえて、学歴も人伝手もないままに美術家への道を突き進んだ棟方は、土俗的で野性味あふれるエロスをたたえた作風でこのころ、すでに注目される版画家になりつつあった。

 前年に謡曲に取材した「善知鳥(うとう)」で版画としては初めて文展の特選となった。この年に手掛けた「釈迦十大弟子」は戦後、サンパウロ・ヴィエンナーレやヴェネツィア・ヴィエンナーレで最高賞などを受賞し、〈棟方版画〉が国際社会の脚光を浴びるきっかけの作品である。

 画壇と文壇の違いはあっても、太宰に対しては同じ津軽出身のライバル意識が強く働いていたに違いないが、6歳年下で醜聞にまみれた自意識過剰の酔いどれ作家に対して、棟方が抱いた嫌悪感の大きさはたやすく想像できる。

〈そのころ「日本浪曼派」の人たち、保田與重郎、前川美佐雄、蔵原伸二郎、中谷孝雄、淀野隆三さん方と親しくなりまして、その挿絵、装幀の仕事をすることになりました。みな才能のゆたかな、いい人たちばかりでした。いちばん最初の装幀は保田氏の『日本の橋』でありました〉

 棟方は『板極道』のなかで当時をそう振り返っている。

 「日本浪曼派」は日本の歴史と伝統への回帰を掲げて、若い文芸評論家の保田與重郎が中心となって創刊した雑誌で、亀井勝一郎や檀一雄、それに太宰治も一時は同人として小説やエッセイを寄稿しているから、棟方にとっては因縁の雑誌である。

 昭和10年(1935年)5月、「日本浪曼派」に『道化の華』を掲載した太宰はその秋、第一回の芥川賞候補に挙げられたが落選の憂き目にあった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の率直に発せざる|うらみがあった」という川端康成の選評に激高した太宰は、「大悪党」「刺す」と息巻いた。

 太宰は自信満々の棟方と貴族的な関西人の保田を嫌い、保田は無頼な太宰を嫌いながら、棟方の異形の才能に一目置いた。そして若い保田の文藻に敬意を寄せた棟方は、同郷の太宰を嫌った。それは保田と「日本浪曼派」という雑誌が総力戦体制へ向かう日本の思想界にもたらした、陰翳(いんえい)の縮図であったのかも知れない。

 大和桜井の旧家に生まれて、ドイツロマン派の影響のもとで古代や王朝時代の日本の伝統を玄妙な美文で論じる保田と、縄文的ともいうべき棟方の荒々しい土俗的な造形がどのような水脈でつながっていくのか。棟方は「日本浪曼派」の同人ではなかったが、保田とのつきあいは親密をきわめた。『日本の橋』をはじめとする保田の多くの著作の装丁や挿絵を手がけ、前身の雑誌「コギト」には自ら鉄斎や写楽を論じた文章を寄せている。

 昭和11年(1936年)に国画会展に出品した「大和し美し」は、棟方とこの若い伝統美学の論客との間に生まれた絆とその作品への影響を考えるうえで、見逃せない作品である。

〈ああ美夜受(みやず)、汝が参らせし酒の香ぞこの汁にこもれる心地す

しかれども薬を毒と變ずるは汝が柔らかきかひなにあらず

なれはかの夜、無知なる百合花の咎もなく揺ぎて匂い悩ませり〉

 ここで棟方が拠り所としたのは、詩人の佐藤一英の長編詩「大和し美し」である。冒頭に「大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和し美し」という絶唱を掲げて、ヤマトタケルが過酷な遠征の果てに遠く伊勢の地でまさに果てようとするとき、ミヤズヒメ、オトタチバナヒメ、ヤマトヒメという、3人の女性への激しい思慕を蘇らせる。

「大和し美し」倭建命の柵 1936年、一般財団法人棟方志功記念館蔵

 古代の英雄と女たちの踊るような絵姿の合間を、約2000字におよぶ「大和し美し」の詩文が埋める、「棟方版画」の原型ともいうべき絵巻物である。

 実は棟方のこの作品が出品されたのと時を同じくして、保田與重郎は日本浪曼派の雑誌「コギト」に『戴冠詩人の御一人者』という論考を発表している。そこではやはり『古事記』のヤマトタケルの薨去(こうきょ)を主題にしており、「大和し美し」と同じように武人ではなく詩人としてのその死に、あつい眼差しを注いでいる。


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