
ミャンマー中部で3月28日午後に発生したマグニチュード(M)7.7の大地震で、軍は31日、死者が2000人、負傷者が3900人を超えたと明らかにした。行方不明は少なくとも270人という。救助活動が続いており、死傷者はさらに増えるとみられる。犠牲者の多くはこれまで、震源に近い第2の都市マンダレーで確認されている。そうしたなか、BBCが被災現場を取材した。
2021年2月のクーデターで権力を掌握した軍事政権は、過去の災害で被害規模を少なく発表しており、今回の地震でも死傷者の正確な情報をつかむのは難しい。
米地質調査所(USGS)は、ミャンマーでの死者は1万人を超え、経済損失は年間の国内総生産(GDP)を上回る可能性があるとしている。
一方、隣国タイの首都バンコクでは31日までに、19人の死亡が確認された。うち12人は、倒壊した建設中の高層ビルで死亡した。この倒壊現場では78人が依然として行方不明になっている。
ミャンマーでは、外国人記者が正式に取材を許可されることはめったにない。今回の地震でも軍事政権は、安全を保証できないとして、外国人記者に査証(ビザ)は出さないとしている。
そうしたなか、BBCビルマ語のテトナイゾー記者のチームは、マンダレーの南約40キロにあるチャウセーの町に入り、住民に話を聞いた。
中部や首都でBBCが取材
テトナイゾー、BBCビルマ語(ミャンマー・マンダレー)
幼稚園の倒壊現場では、ピンクや青、オレンジ色などの子ども用のバックパック15個ほどが散乱していた。壊れた机やいす、滑り台があり、近くにスパイダーマンのおもちゃやアルファベットの文字が書かれたものが散らばっていた。
チュエニェインさん(71)は、孫娘テットテルサンちゃん(5)の遺体が、地震の約3時間後にここで発見されたと話した。
地震が発生したとき、孫娘の母親は昼食中で、すぐに学校に駆けつけたが、建物は完全に崩壊していたという。
家族で葬儀の準備をしていると涙ながらに説明したチュエニェインさんは、「幸いだったのは、最愛の孫の遺体が完全なまま見つかったことだ」と話した。
幼稚園は、地震で子ども12人と教員1人が死亡したと説明している。ただ現地の人々は、この幼稚園では2~7歳の約70人が学んでいたとし、死者は少なくとも40人に上るとみている。
複数の住民によると、付近では泣きながら子どもの名前を呼ぶ母親たちの声が、夜遅くまで聞こえていたという。地震発生から3日がたった31日には、倒壊現場は静かになっていた。人々の顔には深い悲しみが刻まれていた。
救助活動の形跡見られず
BBCの取材チームは、チャウセーに入る前に首都ネピドーを訪れた。
そこで見た中で最も被害が大きかったのは、公務員住宅の建物だった。1階は完全に崩壊し、その上に上層の3階分が乗っかっていた。
がれきの中には血の跡があった。強烈なにおいがし、そこで多くの人が死亡したことを示していた。だが、救助活動が行われた形跡はなかった。
悲しむ住民たちは、軍政から不当な扱いを受けるのを恐れ、取材に応じようとはしなかった。
がれきの下には何人いるのか。生存者はいるのか。救助活動や遺体収容活動はなぜないのか。BBCの取材チームは複数の疑問を抱いた。
そこから車で10分ほどの場所にある首都最大の病院(現地で「1000床病院」として知られる)では、救急治療室の屋根が崩れていた。英語で「Emergency Department(救急診療部)」と書かれた看板が、入り口の地面に置かれていた。
外には軍の医療用トラック6台といくつかのテントが見られた。病院の建物から避難してきた患者らがそこで治療を受けていた。
ミャンマーは1年で最も暑い時期の最中で、気温は40度近いとみられる。テントの中では、猛暑を和らげようと水がまかれていた。
そこには負傷者が200人ほどいたように見えた。頭に血がついている人や、手足を骨折した人もいた。
病院職員が緊急時に出勤しなかったと、強く叱責する男性がいた。その男性が保健相のテットカインウィン医師だと気づいた記者は、取材を申し込んだが、無愛想に断られた。
ネピドーに向かう途中の高速道路では、中央分離帯の木の下に人々が座り込んでいた。外は猛暑だが、余震が続いているため、建物の中にいることを恐れているようだった。
(英語記事 Myanmar earthquake: What we know/Heartbroken parents call out children's names at earthquake-hit pre-school)