その例が、法定最低賃金の引き上げだ。ドイツの最低賃金は、25年1月1日以来、1時間当たり12.82ユーロ(2052円・1ユーロ=160円換算)である。選挙期間中にSPDは、この額を26年から15ユーロ(2400円)に引き上げると約束した。連立協定書にも、「26年には法定最低賃金を15ユーロに引き上げることは可能だ」と書いてある。
これに対しメルツ氏は、「法定最低賃金を自動的に法律で15ユーロに引き上げることはない。経営者と労働組合が構成する賃金委員会が交渉して決めることだ」と述べ、SPDの主張に懐疑的な姿勢を示した。法定最低賃金が両党間のさらなる対立の火種となる可能性が強い。
所信表明演説で安全保障に重点
メルツ氏は5月14日に行った首相就任後最初の所信表明演説でも、安全保障や国際関係に重点を置き、経済改革、社会保障、難民規制については深く踏み込まなかった。この演説で彼は、内政よりも国際問題を重視した。
メルツ氏はEU諸国との連携を深めて、ウクライナ支援を強化する方針を明らかにした。さらにロシアに対する抑止力を強めるために、軍備を大幅に拡張する。そのためにメルツ氏は憲法を改正して、防衛支出の内、国内総生産(GDP)の1%を超える部分については、無制限に国債を発行できる枠組みを整えた。
ドイツ連邦政府は軍備拡張と国内のインフラ整備のために、国債発行により1兆ユーロ(160兆円)を調達する。同氏は所信表明演説で「ドイツ連邦軍を、通常兵力では欧州で最強の軍隊にする」と述べた。
メルツ氏は、就任直後の5月10日にフランスのマクロン大統領、英国のスターマー首相、ポーランドのトゥスク首相とともに、キーウを訪問してウクライナに対する連帯感を表明した。ウクライナ支援に消極的だったショルツ前首相の態度とは一線を画した。
ショルツ前首相は、EUの主軸である独仏関係を、過去の政権ほど重視しなかった。たとえばショルツ首相は、マクロン大統領の核の傘の拡大に関する提案に対しても、前向きな態度を見せなかった。これに対しメルツ氏はこの提案についてオープンな姿勢を見せている。
元々ショルツ首相は、SPD左派の親ロシア派に属していた。彼は22年の時点では「戦車や自走榴弾砲などの殺傷兵器をウクライナに送ると、ロシアから交戦国と見なされる」と述べ、こうした武器の供与に消極的だった。
ウクライナ戦争が始まった直後、ドイツのクリスティーネ・ランブレヒト国防大臣(SPD)は「我々は紛争国に武器を送ることを法律で禁止されている」として、ヘルメット5000個だけをウクライナに送ると発表し、多くの国から批判された。ドイツはその後、米英が多数の殺傷兵器をウクライナに送っているのを見て、戦車や自走榴弾砲などをウクライナに供与し始めた。これに対し、メルツ氏は対ウクライナ支援ではショルツ氏よりも積極的な姿勢を見せてきた。
このためメルツ首相は、安全保障問題・外交問題では前任者とは対照的に他の欧州諸国と足並みを揃えると予想されている。ウクライナ支援の強化については、現在のSPD執行部からは反対意見は少ない。
副首相兼財務大臣を務めるラース・クリングバイル共同党首は、SPD右派に属する。彼はウクライナ支援強化や他のEU諸国との協力関係の深化については、メルツ氏の路線に同意している。
メルツ氏が最初の所信表明演説で安全保障と外交を前面に押し出し、内政に関するテーマでは選挙戦の期間中ほど踏み込まなかった理由は、内政問題ではSPDとの意見の相違点が多いからである。CDU・CSU支持の姿勢で知られるドイツの有力日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)も、「メルツ氏は所信表明演説の中で、内政問題に踏み込むのを避けて外交問題を前面に押し出した。選挙戦の期間中のタカ派的トーンは、影を潜めた」と論評した。