巨額の先行投資と事前購入契約は、日本を含む各国政府が、ワクチンという単一の解決策に国家的、政治的、そして経済的な賭けを行ったことを意味する。これにより、「サンクコスト(埋没費用)」への固執が生まれ、その後の政策の柔軟性を著しく制約することになった。
一度「国民全員のための切り札」として購入したワクチンを、後に「高齢者用の限定的な用途」と位置づけることは、政治的に極めて困難となったのだ。ワクチンこそが唯一の解決法という筋書きは、財政的にも政治的にも、後戻りできない形で固められたのである。
全国民接種と感染終息への期待
ワクチン開発に投じられた希望と資金は、21年に入り、目覚ましい科学的成果として結実した。当時主流であったデルタ株に対して、mRNA ワクチンは驚異の効果を発揮したのだ。
ファイザー社製ワクチンの第III相臨床試験では95.0%、モデルナ社製ワクチンでは94.1%という極めて高い発症予防効果が示され、若年層では100%の発症予防効果が報告されるなど、その有効性は疑いようのないものに見えた。これらのデータは、ワクチンをパンデミック収束の切り札と位置づける政策の、揺るぎない科学的根拠となった。
この輝かしい成果を背景にして、政府は全国民を対象とする大規模なワクチン接種キャンペーンを展開した。法的枠組みは、予防接種法に基づく「特例臨時接種」であり、国民は接種を受ける「努力義務」を課されたが、法的な強制力を持つものではなかった。
しかし、政府は、最大限の接種率達成を明確な目標として、医療従事者、高齢者を優先した後、一般市民へと対象を拡大し、「1日100万回接種」という野心的な目標を掲げた。政府の強力な推進、メディアによる連日の報道、そして社会的な同調圧力が一体となり、ワクチン接種は単なる個人の選択を超え、社会の一員としての責務という雰囲気が醸成された。
国民の期待もまた、かつてないほど高まった。21年6月に実施された高齢者向けの意識調査では、副反応の不安を抱える人が64.5%いた一方で、82.0%がワクチンの効果に期待を寄せ、92.1%が接種に積極的だった。接種後にしたいことの上位が「友達と気兼ねなくおしゃべりしたい」「離れている家族と会いたい」だったことは、人々がワクチンに託した希望が、単なる健康維持ではなく、失われた社会的日常の回復にあったことを物語っている。
メディアの論調も、この期待を増幅させた。「感染予防」や「集団免疫の獲得」によるパンデミックの終焉という、壮大な物語を語り、接種率の上昇を連日詳しく報道して、接種競争を煽ったのだ。
国民の期待が「重症化予防」から「感染拡大防止」へと転換したことは、極めて重要な変化であった。若者など、重症化リスクが低い層にまで広く接種を促すためには、自己利益を超える論理が必要となる。「他者を守るため、社会全体の自由を取り戻すため」という筋書きは、普遍的なワクチン接種を正当化し、政府が目指す高い接種率を達成するために不可欠であった。
この筋書きは、デルタ株が主流であった当時は、科学的にも妥当性があった。しかし、政府とメディアは、「感染予防」という極めて高いハードルを国民的期待として設定してしまったことが、自らを窮地に追い込む政治的・コミュニケーション上の罠となることに、このときには気付かなかった。