2025年12月5日(金)

古希バックパッカー海外放浪記

2025年8月3日

戦後ナチス戦犯の逃亡を黙認・容認した南米諸国の政治状況

プエルトモントの町を見下ろす丘に広がる公共墓地。一番上の古い区画には 19世紀のドイツ植民団の人々のものと思われるドイツ系名前の墓地が並んでいた。こ の広い公共墓地のどこかにナチスドイツ戦犯も人知れず眠っているかもしれない。南米 に潜伏した数万の戦犯の大半は逃げ延びたのだから

 受入側の南米各国は元来ドイツ系・イタリア系移民が多く当時の軍事政権・軍人出身元首や保守系政治家はヒットラーやムッソリーニを信奉していた。典型的なのはアルゼンチンのペロン大統領である。1946年に大統領に就任以来、失脚する1955年まで積極的にナチスドイツ戦犯を受入れた。イタリア系出自でエリート軍人であり軍事史の専門家であったペロンはプロイセン王国の軍略、ドイツ陸軍の軍事理論“総力戦論”に傾倒しナチスドイツを賛美していた。ナチスドイツの統治システム、軍事的経験、科学技術をアルゼンチンの軍隊・治安・産業に活用することも戦犯・非戦犯を問わず大量のナチスドイツ出身者を受入れた理由のようだ。

 なお、ペロン大統領は失脚後にスペインに亡命して当時の独裁者フランコ将軍の庇護を受けている。そしてフランコ将軍は戦後一貫してナチスドイツ戦犯をスペイン経由南米に逃亡するのを積極的に支援していた。

ピノチェト独裁政権下から亡命者が向かったのはスペインと東西ドイツ

 1970年に民主的選挙により政権を握ったアジェンデ政権は社会主義国家建設を目指し外資排除・大企業の国有化など急進的政策を推進したが1973年に米国の支援を受けたピノチェト将軍による軍事クーデターで崩壊した。ピノチェト軍事独裁政権はアジェンデ政権を支えた左派の人々を危険分子として拘束するなど大弾圧を強行した。

 その結果数万人の左翼系市民が海外へ亡命した。王政復古の準備段階にあった旧宗主国スペインへの亡命者が最も多かった。次いで当時の東西ドイツへの亡命者も7000人あった。実はバルパライソのホステルで知り合ったドイツ人学生クララの祖父も西ドイツ(西ベルリン)への亡命者の1人であった。

 やはりドイツ系チリ人はスペイン語だけでなくドイツ語も話せるしドイツ文化も身近であることからドイツへの亡命を希望したのだ。西ドイツへ4000人、そして政治信条が近い共産党一党独裁の東ドイツへ3000人が亡命した。今日的には想像し難いが半世紀以上昔の1970年代前半には社会主義国家が理想社会であると考える知識人が多数存在していたのである。

 ちなみに筆者が駆け出しの会社員であった1979年頃に同僚の誘いで参加した有名私大W大学の高名な政治学者の講演会を思い出した。朝鮮社会民主主義人民共和国(北朝鮮)を視察旅行した帰朝報告講演会であった。学者が北朝鮮を理想社会と祭り上げ“地上における人民大衆の天国”と高々と語ったのだ。チリの理想主義の若者が迷うことなく東ドイツ亡命を申請したのはそのような時代背景があったのだ。

サンチアゴ市警の中国製白バイ、チリは経済では圧倒的に中国依存

サンチアゴ市警に配備された中国製白バイ

 現在のチリの人口は約2100万人。欧州系87%、先住民系が13%。欧州系の内ドイツ系は15~20万人という数字があるが100万人という数字もある。筆者の実感では100万人が現実に近いように思われる。いずれにせよ以外に少数である。

 今日のチリ経済は圧倒的に中国依存度が高い。ドイツは主に機械類をチリに輸出して、チリからは銅、炭酸リチウムを輸入しておりチリの5番目の貿易相手国である。

 サンチアゴで白バイ警官と話していたら現在のチリ・中国・ドイツの経済関係を象徴するような話を聞いた。警官の乗っている白バイのブランドが聞いたこともないメーカーだったので尋ねると“メイド・イン・チャイナ”とのこと。サンチアゴ市警察本部では従来から白バイとしてドイツ製BMWを購入してきたが、最近中国政府から無償で寄贈された数百台の中国製バイクを白バイ隊に導入したとのこと。

 他方でチリへの無償援助額ではドイツが断トツ1位で日本の無償援助額の30倍という。このあたりがドイツと中国の根本的な違いなのだろう。日本はチリから銅、ウッドチップ、ワイン、サーモンなど輸入しており重要な貿易相手国である。ドイツと日本が協力してチリの中国への過度の依存度を緩和・是正するような取り組みを期待したい。

以上 次回に続く

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