チリとドイツの交流の起源はバルパライソとハンブルグ
バルパライソは人口75万人のチリ最大の港湾都市である。1810年にチリがスペインから独立すると同年にハンブルグとバルパライソの交易が始まった。チリに最初のドイツ人が移住したのもバルパライソである。現在でもバルパライソにはドイツ人教会、小中高のドイツ人学校がある。
ちなみにドイツ人高校はバルパライソ以外にもチリ中部・南部の地域に点在している。サン・フアン、サンチアゴ、コンセプシオン、バルディヴィア、オソルノ、プエルトモントである。ドイツ人小中学校もやはり同様の地域に9校も運営されている。
バルパライソ港の後背地の丘陵の高台を東西に走る通りは“ドイツ通り”(Avenida Alemania) と命名されている。通り沿いは太平洋を望む瀟洒な高級住宅地となっている。チリの詩人・作家でノーベル文学賞を受賞したパブロ・ネルーダの私邸(現在は記念館となっている)もドイツ通りの少し下にある。
スペイン人女子学生アンドレアによるとパブロ・ネルーダの作品は小中高を通じてスペイン語圏(hispanohablantes)では必修なのだそうだ。
バルパライソ港を望むビスマルク広場
3月26日。ドイツ通りをパブロ・ネルーダ記念館から東に向かって散歩していたらバルパライソ港を見下ろす展望台があった。そして展望台の傍らが公園となっていた。案内板に“ビスマルク広場”(Plaza Bismark)とあった。ビスマルクとは言うまでもなくプロイセン王国の首相としてドイツを統一してドイツ帝国の宰相を勤めた人物である。公園の木陰にビスマルクの肖像のレリーフと碑文があったが暗くて写真が撮れず碑文も劣化しており19世紀末に建立されたらしいとしか分からない。
いずれにせよ統一国家として欧州列強の最右翼となった故国“ドイツ帝国”の繁栄を寿ぐ碑文であったのだろう。当時のドイツ人居留民やドイツ系チリ人はドイツ帝国の興隆を誇らしく感じていたのであろう。
3月27日。バルパライソのホステルで23歳のベルリン在住のドイツ人学生クララと知り合った。彼女の祖父はドイツ系チリ人だったのでラテンアメリカに興味を持ちスペイン語とラテンアメリカ史を専攻したという。大学卒業後ラテンアメリカを1年間周って見聞を広めている途上だった。大学院への進学も検討している才女である。
クララによると個人的にはビスマルクの強権主義的政治手法は嫌いだが当時のドイツの発展には不可欠な手腕を発揮したと評価。他方でネオナチス系のドイツの若者による“ビスマルク崇拝”は危険な兆候であると批判した。
第二次世界大戦と枢軸国とチリ・アルゼンチン
第二次世界大戦が勃発すると中南米諸国の多くは中立の立場を表明したがクララによると“当然の外交的判断”という。特にアルゼンチン・チリはむしろ枢軸国側にシンパシーを抱いていたとのこと。アルゼンチンはイタリア系移民が多く、チリ南部にはドイツ系移民が多かった。
当時中南米諸国はアメリカの巨大資本に支配され米国に原料を供給し米国製品を買うという植民地的位置づけにあった。ちなみに南米旅行中に現地人が米国人のことを“gringo”と表現したことが数回あった。“gringo”はスペイン語のスラングでヤンキーとかアメリカ野郎みたいな米国人の蔑称である。歴史的に米国支配を嫌う中南米の人々の反米感情を端的に示している言葉である。
他方でドイツやイタリアは中南米諸国と対等な立場で交易していた。クララによると敗戦後に多くのナチスドイツ戦犯が南米に逃亡して潜伏したのはこうした歴史的背景があるという。特にチリ南部にはドイツ人入植者が築いたドイツ人コミュニティーがありナチスドイツ戦犯が潜伏するには格好の場所だったという。
なんとアルゼンチンには5000人のナチスドイツ戦犯が逃亡
ナチスドイツ敗北後にどれだけの人数が南米に逃亡したのか。正確な数字はないが一般的には合計1万人近くの戦犯が南米に逃亡したと推計されている。ユダヤ人のナチス戦犯追跡機関は4万人~5万人が南米に逃れたと主張している。
ブラジルへは1500~2000人、チリへは500~1000人、ウルグアイとパラグアイには1000~2000人、そしてアルゼンチンにはなんと5000人が逃亡したようだ。
フレデリック・フォーサイスのベスト・セラー『オデッサ・ファイル』では連合軍占領下のドイツから南米への組織的な逃亡ルートについて詳細に描かれているが、現在ではほぼ事実であると関係機関により認定されている。ナチス残党は戦犯被疑者の元親衛隊将校やナチス党幹部の逃亡を幇助する地下組織網“オデッサ”を作ったが、オデッサ以外にも複数の同様の組織が作られた。ローマ法王庁、カトリック教会などに属する反共思想のナチスシンパの関係者が組織的に幇助して主として国際赤十字発行の偽造身分証を使い逃亡したのだ。
