市中心部で存在感を放つドイツ人クラブとは
3月8日。チリ南部の人口25万人の港湾都市プエルトモントの市庁舎がある中心街を散歩していると、由緒ある石造りの建物に『ドイツ人クラブ』と看板が出ていた。建物の外壁にはドイツの都市・州の紋章が飾られていた。特にプロイセン王国の国章である鷲の紋章が目についた。
“クラブ”というと大英帝国時代から続くロンドンのクラブを思い出す。上流階級の紳士の社交場である。大英帝国の植民地では、本国に倣って英国人を中心に現地にクラブが創設された。筆者はスリランカやマレーシアのクラブを思い出した。英国からの独立後にはクラブは、地元有力者の社交場となり現在に至っている。プエルトモントになぜドイツ人クラブがあるのだろうか。
ドイツ人クラブ創立は1860年、ドイツ人消防団創設は1865年
入口の石段を上がり正面玄関の重厚な扉を開けて玄関ホール入り、さらに数段階段を上がると広いダイニング・ホールがあった。バーカウンターの後ろの壁にはドイツの風景が描かれていた。数人の若者が忙しそうに開業準備をしていたが来意を告げると女性スタッフが応対してくれた。
彼女によるとプエルトモントにドイツ移民団が最初に上陸したのは1852年。未開の入り江の土地を切り拓いて、プエルトモントの町を作った。1852年の上陸記念碑が市庁舎の前の公園にあるよし。ドイツ人クラブは1860年に創立された。彼女は窓から見える隣の建物を指さして、ドイツ人消防団(Bomberos Germania)であると説明した。1865年創設と壁に表記されている。
クラブはプエルトモントを拓いたドイツ人移民の社交場だったのだ。現在正会員は140人くらい。本場ドイツ料理を提供するレストランは、一般にも開放されている。地下はメンバークラブとなっていてバー、カード・ルーム、パーティー・ルームがあるそうだ。
彼女によると、この地方ロス・ラゴス州は特にドイツ系住民が多いという。移民船でプエルトモントに上陸してから次第に北に向かって、植民していった名残という。植民者はこの地方では、牧畜を中心にジャガイモ・トウモロコシなども栽培し、ビールを醸造したという。
1852年ドイツ移民団上陸記念碑と先住民問題
3月9日。プエルトモント市庁舎前の公園で最初に見つけた記念碑は、上陸100周年記念の1952年に建立されたものだった。碑文は日付と上陸を簡潔に記している。さらに行くと上陸150周年、つまり2002年に建立された記念群像があった。ドイツ人家族(夫婦と子供2人)と先住民らしき人物と犬。ドイツ人植民者と先住民の平和的友好的な遭遇を表現しているようだ。
2002年建立の記念群像は上述のドイツ人クラブが発起人と聞いた。筆者は白人植民者の進出により、生活圏を追われたパタゴニア先住民(マプチェ族)の悲劇について、本稿第4回・第5回で詳述した。2002年当時のドイツ系住民は、祖先の植民者が先住民と平和的に遭遇して、友好的共存関係を築いたというストーリーを、現代人に訴求したかったのではないだろうか。150年間の長い歴史においては、両者の利害が対立することもあったであろう。ドイツ人入植地の放牧された家畜が先住民に盗まれることも多々あったと郊外の村で聞いた。いずれにせよ記念群像から想像されるような牧歌的な関係ではなかったはずである。
1852年のプエルトモント入植の背景にあるドイツの政治情勢
150周年の碑文には『1852年11月28日 機帆船スザンヌ号で植民団到着。出身地はザクセン32家族、シュレーゼン5家族、プロイセン3家族、ヘッセン3家族』とある。44家族で200数十人の移民団だったようだ。
ヘッセンの3家族を除くと、全て当時のプロイセン王国出身である。プロイセン王国といえば、鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクにより、北ドイツ連邦を経て1871年に統一ドイツ帝国の盟主となったことで知られる。それゆえ筆者は保守的で安定した王国というイメージを持っていた。ちなみにビスマルクがプロイセン首相となったのは、1862年であり1871年から1890年まではドイツ帝国宰相を兼務している。
ところが、1852年当時のプロイセン王国は、かなり政治的に不安定であったようだ。1848年にパリで2月革命が起こると、ドイツにも自由を求める熱気が飛び火してプロイセン王国の首都ベルリンでも3月革命が勃発。自由主義的政府が発足するが短期間で保守派が巻き返した。その後も保守派と自由主義者の対立は続いた。産業革命も英国や仏国に遅れて当時は経済的にも劣っていたようだ。
参考までに米国の移民の歴史を見ると19世紀にドイツから数百万人という大量の移民が到着している。その結果、2000年の国勢調査では人口の15%、約4500万人がドイツ系となっている。いかに多数のドイツ人がドイツでの生活を見限って新天地を求めたか想像できる。
ドイツ移民団の背景にあるチリの移民政策“選択的移民法”
チリでは1845年に“選択的移民法”が成立している。当時チリは近代的共和政白人国家建設を国是としていた。移民法が意図したのは欧州系白人の中流・上流階級の人々をチリに誘致することである。そして勤勉節約の国民性で知られるドイツ人の植民を誘致したのである。地域としてはチリ南部の未開の地であるプエルトモント~バルディニアの土地が供与された。
1848年からチリ南部へのドイツ人入植が始まり、この時期に累計6000以上のドイツ人家族がチリ南部に移住したのである。
