チリ最大のドイツ人クラブ
3月12日。プエルトモントからローカルバスで1時間のプエルトバラスに日帰り遊覧した。プエルトバラスは、ジャンキウエ湖の畔にあり、日本人がチリ富士と命名したオソルノ火山を望むリゾートタウンである。ジャンキウエ湖に沿ってドイツ風木造建築のホテルが並んでいる。
町の中心街を散策していたら“ドイツ人クラブ”があったので立ち寄った。残念ながら支配人は外出して不在。若いスタッフに聞いたらプエルトバラス“ドイツ人クラブ”は会員が約300人でチリ最大のドイツ人クラブという。
スタッフによると、プエルトバラスには1853年にドイツ人の最初の移民団が入植したという。つまり、プエルトモントに最初のドイツ人移民団が上陸してから、わずか1年後には別の移民団がプエルバラスに到着したのである。
それから刻苦勉励のゲルマン魂で未開の地を開き170年後の現在“薔薇と火山の町”と呼ばれる美しいリゾートとなったのだ。
老画家が独力で作った奇妙な博物館、1939年の“ライフ”誌
プエルトバラスからジャンキウエ湖畔を歩いて20分ほどのところに奇妙な建物があり地図上では“博物館”となっていた。無料なので見学するとオリジナルの住宅を増改築したようだ。2階と3階の間に狭い居間があり、老人が机に座っていた。彼もドイツ系チリ人であり絵を描く傍ら古い空き家の住宅を長い年月をかけて1人で増改築したという。“博物館”の中の古い時計、自転車、調理器具などの調度品・器具類は全て元の住民であったドイツ系チリ人一家が置いて行ったものという。
書斎らしき部屋には本、新聞、雑誌が乱雑に放置されていた。写真雑誌があったので手に取るとかの有名なアメリカの“ライフ”誌だった。ライフ誌は何冊も棚に積まれていた。当時ライフは週刊誌だった。手元の一冊の日付を見ると1939年12月であった。
1939年当時、チリの僻地のプエルトバラスに住んでいたドイツ系チリ人が、アメリカで発行された英語の雑誌を定期購読していたことに驚いた。英語を解し国際情勢や世界の動向を注視していた知識人がプエルトバラスにいたのだ。そして発行元のニューヨークとプエルトバラスを結ぶ国際郵便網が整備されていたことにも驚く。郵便飛行士のリンドバーグが大西洋横断に成功したのが1927年であるからおそらく米国と南米の間にも定期航空便があったのだろう。
手元の一冊をパラパラ見ていて違和感を覚えた。1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発しているのに、同年12月発行の写真・記事には戦争報道が見当たらない。むしろ、当時の米国の豊かで平和な日常生活を彷彿とさせる内容が多い。戦争関連では唯一ドイツ海軍の戦略を評価するような解説記事と、関連のドイツ海軍の写真があった。当時米国は外交的には欧州の戦争である第二次世界大戦には局外中立を宣言していたのでこのような解説記事が掲載されたのだろうか。
次回ではさらに別の角度からドイツとチリの両国関係について報告したい。
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