ICUの夜明けと、妻の異変
2025年9月17日午前9時、私は手術室に運ばれた。主治医のS先生を中心とするチームが慎重に準備を整える中、11時間に及ぶ壮絶な戦いが始まった。今回の手術は、大腸がんおよび肝臓転移がんを同時に切除する極めて大掛かりなものであった。
当初の計画通り、大腸の原発がんは約20センチを切除することになった。問題は肝臓への転移である。転移箇所は9カ所。そのうち7カ所は肝臓表面に近い浅い位置にあったが、残る2カ所は血管の近く、深部にまで達していた。外科チームは熟慮の末、メスによる切除ではなく、高温の熱線による焼灼法を選択した。これにより、出血を最小限に抑えつつ、がん細胞を壊死させることができたのである。
手術全体としては、肝臓の約30%が削除された計算になる。まさに「臓器の再構築」ともいえる大手術であった。午後10時、長い戦いを終えてICU(集中治療室)に戻ったとき、私はすでに時間の感覚を失っていた。
ICUに運ばれた私は、全身麻酔の名残に包まれながら、朦朧とした意識の中でうつらうつらとしていた。目を開けても、周囲の光と人の声が遠くに聞こえるだけで、現実感がない。家族の声にも反応できず、自分が誰なのかも曖昧だった。認知症患者のような状態といってよい。
麻酔が切れても、痛みは鈍痛にとどまっていた。痛覚よりも、ただ「体全体が重い」という感覚だけが残った。心臓の鼓動が全身を震わせるように伝わり、生命が細い糸でつながれているように感じた。
翌18日の朝、看護師が「午前中には一般病棟に移りますよ」と告げたとき、私は耳を疑った。11時間の手術を終えて、まだ24時間も経たないうちにICUを出るとは思わなかった。医療技術の進歩を実感しつつも、心身の準備は整っていなかった。
痛みと不眠の狭間で
午後になると、麻酔の残滓が徐々に薄れ、痛みが全身に広がってきた。特に腹部の切開部分と肝臓の位置に鈍く重い痛みが走る。痛み止めの点滴を受けながらも、意識が冴えて眠れない夜が続いた。
18日の夜、主治医は睡眠導入剤を処方してくれたが、薬の効果は限定的であった。体の奥から響く不快感が消えず、夜通し、時計の針の音だけが聞こえるような孤独な時間が続いた。翌19日も同様で、記憶は途切れ途切れである。喉の乾きだけが鮮明に残っており、水を欲するたびに看護師を呼んだ記憶がある。
手術から1週間は、鎮痛剤と睡眠薬の助けを借りながらの戦いであった。食事も制限され、水分の摂取すら慎重に行わなければならなかった。時間の感覚は失われ、朝と夜の区別も曖昧だった。
家族の支えと突然の試練
術後の経過を見守るように、家族は毎日病室を訪れてくれた。娘たち、孫たち、そして妻──皆の笑顔が、私に生きる力を与えてくれた。
しかし、8日目の午後、いつものように家族の姿が見えなかった。不思議に思っていると、看護師が沈んだ表情で近づいてきた。
「ご家族から緊急の連絡がありました。奥様が心筋梗塞で救急搬送されました」
その言葉に、私は一瞬、呼吸を忘れた。信じられない、と思った。私の長期手術による心労が原因だったのだという。まさに夫婦同時の緊急事態であった。
翌朝、連絡を受けた。妻は緊急手術でカテーテル治療を受け、なんとか一命を取り留めたという。心の底から安堵した。もし彼女に何かあったら、私の闘病にも意味がなくなるところだった。長年連れ添った夫婦の運命が、同じ週に、命の綱を握りしめていたのである。
生命の絆
この出来事を通して、私は改めて「人は一人では生きられない」ことを痛感した。自分の命を懸けた戦いの最中に、最も大切な伴侶が同じように生死の境を彷徨っていた。その偶然を、私は運命と呼ばずにはいられない。
妻が無事に回復したという知らせを聞いた夜、病室の窓越しに見た月の光が、妙に優しく感じられた。ICUを出てからの日々は、痛みや不眠との闘いであったが、その光だけは確かに希望を照らしていた。
「まだ終わってはいない。だが、生きる力は戻ってきた」
そう自らに言い聞かせながら、私は再び闘志を燃やした。
次なる戦場へ
術後の回復は決して容易ではなかった。食事の制限、体力の低下、そして心の不安。しかし私は「がんファイター」として再び立ち上がる決意を固めた。医師たちの献身的な努力と、家族の見えない支えに報いるためにも、この命を次の戦場へと進めねばならない。
これから始まるのは、肉体の治療から精神の再生への道である。抗がん剤治療という新たな戦いが待っている。だが、私はもう恐れない。
生と死を見つめた夜を越え、ICUの夜明けに立ち会った者として、私は再び歩き出す。
