2025年6月22日(日)

山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2025年5月24日

「先生、がんは私の敵なんでしょうか?」

 告知を受けたばかりの病室の白い壁が、私の問いかけを反響させた。全身を蝕むステージ4の大腸がん。それは、穏やかな日常に突如として現れた、不吉な暗影だった。

 京都・妙心寺の塔頭、長慶院の小坂興道師を訪ねたのは、そんな混乱と絶望の淵に立たされた直後のことだった。師の静謐な佇まいを前に、私は藁にも縋る思いで、心の奥底に渦巻く疑問を率直にぶつけた。小坂師は、私の焦燥を映すように、深く静かに目を閉じ、やがて穏やかな笑みを湛えながら、問い返された。「ダイバダッタの話をご存じですか?」と。

(mai111/gettyimages)

釈尊の傍らの影——ダイバダッタの再解釈

 ダイバダッタ。釈尊(ゴータマ・ブッダ)の従兄弟であり、共に修行に励んだ兄弟弟子。仏教の伝統的な物語においては、釈尊に敵対し、教団の分裂を画策し、ついには命を狙ったとされる、いわば“裏切り者”として語り継がれてきた。しかし、時を経た現代の仏教研究、そして一部の経典の中には、このダイバダッタの存在を全く異なる視点から捉える試みがある。

 釈尊の覚りを深めるために、あえてネガティブな役割を引き受けたのではないか、と。対立を通して、真理はより鮮明に浮かび上がる。あたかも、光があるからこそ影が存在するように。

 小坂師の言葉は、長年の間に私の中で凝り固まっていた善悪の二元論を揺さぶった。「あなたのがんも、あなた自身の中にいる“ダイバダッタ”かもしれません。本当は敵ではない。あなたに何かを教えるために、現れた存在かもしれません」。その瞬間、私の内なる風景に、これまでとは異なる光が差し込んだ気がした。

医学的視点—変容した自己との対峙

 医学的に見れば、がん細胞は外部からの侵入者ではない。それは、もともと「自分」の一部であった正常な細胞が、遺伝子の微細な変異によって制御機能を失い、際限なく増殖するようになったものだ。つまり、がん細胞は「敵」というよりも、「変わり果てた自己」と捉えるべき存在なのだ。

 近年進歩が著しいがん免疫療法、特に免疫チェックポイント阻害剤などは、この「変わり果てた自己」を、再び免疫システムが認識し、攻撃するように促す治療法である。

 この治療法の根底には、「がん細胞=完全な異物」という単純な図式ではなく、「がん細胞=自己と非自己の境界に存在する」という、より複雑な理解が存在する。

 最先端のがん治療の現場でさえ、「敵」として徹底的に排除するのではなく、「見分け、制御し、共生する」という、より繊細なアプローチが模索されているのである。


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