2026年10月14日(水)

脱「ゼロリスク信仰」へのススメ

2026年10月14日

イルクーツクで何が起きたのか

 確認されていることは、亡くなったのは研究所で検査技師として働いていた28歳の女性で、10月2日、イルクーツク近郊シェレホフの病院で重い肺炎により死亡したことだ。病院の一部は封鎖され、約200人が医学的な監視下に置かれ、ロシアの衛生監督当局のポポワ長官が現地入りした。

 当局によれば、接触者の検査では、ペストなど危険な病原体は検出されなかった。ロシアは6日、ペスト患者は確認されていないとWHOに回答し、WHOはイルクーツクのリスクを「中〜低」、ロシア全体で「低」、欧州地域で「非常に低い」と評価した。その後、ロシアは予防措置の縮小に入った。

 一方、分かっていないことは、亡くなった女性がペストの検査を受けたのか、その結果はどうだったのかだ。ロシアは当初、肺ペストかどうかを調べているとWHOに伝えていたが、検査結果を明らかにしていない。

 それでは肺炎の原因は何だったのか。WHOは、重症肺炎の原因、予防措置のきっかけとなった病原体、そして「2人目の職員が原因不明の肺炎にかかった」との報道について、追加情報を求めている。

 SNSでは「ペスト菌が入っている試験管を落とした」とのうわさが広がったが、当局は事故の証拠はないとしている。一方で、隣接するブリヤート共和国の首長が早い段階で「ペストで死亡した可能性」に言及したこと、大統領府ペスコフ報道官が報道の多くを「虚偽」と退け、当局発表を信じるよう求めたことも、混乱に拍車をかけた。米国のルビオ国務長官はロシアにより多くの情報共有を求めている。

疑惑をどう考えるか

 ここで、「ペストが広がっているのか」と、「この女性はなぜ亡くなったのか」について考える。「広がり」については、ペストという病気の性質そのものが答えを与えてくれる。

 肺ペストの潜伏期は短く、1〜3日程度で発症する。仮に女性が肺ペストだったとすれば、看病した家族や医療者など約200人の接触者の中から、1週間ほどのうちに次の患者が出ていてもおかしくない。死亡から1週間以上がたち、そうした報告はない。

 もちろん、ロシアの発表をそのまま信じる必要はないが、重い肺炎の患者が次々に病院へ運ばれ、亡くなる人が出る事態を、完全に隠し通すのは難しい。独立系メディアやSNSが不安をあおる情報まで拾い上げている状況で、続発例の気配がないことは意味を持つ。

 仮に女性がペストだったとしても、接触者への予防投与が行われていれば、二次感染は抑えられる。一部に「菌が強くなり治療が効かない」かのような発言も見られたが、薬剤耐性のペスト菌はまれであり、標準的な治療は今も有効である。

 女性の死亡の原因については、まだ答えが出ていない。そして、ここにこそ疑念の根がある。ロシア、そして旧ソ連には、感染症や事故の情報を隠した前例がある。

 1979年、ウラル地方のスベルドロフスク(現エカテリンブルク)で炭疽による死者が相次いだ時、当局は「汚染された食肉が原因」と説明した。実際には軍の生物兵器施設から菌が漏れたものであり、エリツィン大統領が認めたのは13年後の1992年だった。1986年のチェルノブイリ原発事故でも、初期の情報公開は大きく遅れた。旧ソ連が大規模な生物兵器開発を進めていたことも、冷戦後に明らかになっている。

 加えて現在のロシアは、戦時下で報道や言論への統制を強めている。政府が「報道の多くは虚偽」と言い、本人の検査結果を示さないままでは、人々が「何か隠しているのでは」と考えるのは自然な反応だろう。疑念は過去の経験から生まれた合理的な警戒である。


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