「呟く市長」は何を変えようとしているのか

2014年12月12日

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――年1回の敬老会の開催や、敬老会に来られない人に民生委員が紅白まんじゅうを配布する予算を削減されたわけですが、そういった活動がコミュニティを維持する役割を負っていた部分はありませんか?

熊谷:それは当然あります。ただ私が思うのは、そのやり方でコミュニティを維持するのが最も良い方法なのか、ということです。会うきっかけになる、それはわかります。でもそれは、敬老祝い金やまんじゅうの配布がないとできないのですか? ということなんですね。

 ほかにやり方がなかったかといえば、あったはずなんです。高齢者の方が地域の身近な場所に出てこられたり、健康教室などを作ったり、地域の方が訪問して話し相手になったり、家事の手伝いをしたりといった仕組みを、隅々にまで作っていくことのほうがよっぽどいいはずです。年に一回、お金やモノを渡すときだけ会うという関係性が、絆としてもっとも良いものなのか、やり方として合理的なのか、そこをもう一度考えるための議論をしましょうという問題提起だったんです。

――公的扶助として何でもやってしまう市政から、自助を支援する市政に変えるということでしょうか。

熊谷:まさにそうなんです。高齢者人口は大きいのですが、財源は限られています。この状況で、全員にお金やモノを渡すことで喜んでもらうのではなくて、その人に眠っている力、地域に眠っている力を引き出すための支援でなければいけない。障害者福祉など、行政が支えなければならない分野も当然ありますが、基本は自助への支援なんです。これまでの福祉政策は、その点が少しズレてきているように思います。

 喜んでもらうことが福祉の第一目的ではないと思うんですね。喜んでもらう行為は人と人とのつながりの中でやるべきであって、行政がそれを支援することが福祉なのだと思います。高齢者人口の小さかった時代だからこそ事業化できた喜んでもらう福祉が、時代が変わってもまだ存続してしまっています。でも行政の役割はそれではないし、行政は万能の存在ではないと思うんですよね。

 喜んでもらうための福祉が持続可能なのであれば、それもいいとは思います。でも、我々にはそれができない。誤解を招くような表現ですが、私は職員に「福祉という言葉が大嫌いだ」と言ったことがあります。福祉の理念は大好きだけど、あなたたちの使う「福祉」の概念は間違っている、福祉の出し手も受け手も、それを施しだと思ってしまっているのだとすれば、それは間違いなんです。

 悲しいことに「福祉」という言葉にはイメージがついてしまっています。「助け合い」「支え合い」という言葉をなるべく使うようにしています。

 「市民参加」「協働」といった言葉もなるべく使いません。住民が好きに意見をして、その実現は行政だけに負わせる、それが多くの場合の市民参加になっているように思えます。手を汚さずにいいとこ取りをするのではなく、自分たちが主体となって「やる」、行政はその支援を行うのが望ましい姿のはずなんです。

 だから私は「自治」という言葉を使います。自ら治める、「市民自治」ですね。

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