その状況を覆すべく朴正煕大統領が決断したのが、日本との国交正常化だ。植民地支配に対する謝罪や賠償を勝ち取れないまま対日国交正常化に踏み切るという決断は、「屈辱外交」という強い反発を韓国内で生んだが、朴正煕大統領は戒厳令を敷いてまで押しきった。そして、日本から5億ドルの経済協力資金と技術の供与を受けることで経済成長の基盤を作った。
ただ、資金面の手当てがついたといっても、余裕があるわけではない。だから、限られた資源を効率的に活用するため、特別な低利融資などといった形で「選ばれた企業」を後押しした。こうした形態が政経癒着に結びつくのは当然だが、それでも「漢江の奇跡」と呼ばれる驚異的な高度成長につながっていった。
ベトナム戦争とオイルショックで急成長
韓国財閥の歴史で忘れてならないのが、ベトナム戦争特需だ。
韓国は1964年、米国からの要請を受けてベトナムへの派兵を始めた。米国は見返りとして、派兵経費すべてを負担し、多額の軍事援助を行うだけでなく、後方地域での輸送や建設業務に韓国企業が進出することを支援した。派兵された韓国軍は計32万人だが、後方業務に従事した民間人は計50万人といわれる。
許名誉教授は「ベトナム戦争で韓国が得た経済的利益は、総計50億ドル程度になり、日本からの経済協力資金よりずっと多かった。韓進や現代は、ベトナムでの事業で資本と技術を蓄積して急成長した」と話す。
韓国軍は1973年、パリで和平協定が締結されたことを受けてベトナムから撤収する。
そして、同年10月に第4次中東戦争が勃発し、第1次オイルショックが起きる。オイルショックは、重化学工業への転換を急いでいた韓国経済にとっては打撃だったが、同時に、ベトナム戦争終結で東南アジア市場を失った韓国の建設企業にとっては中東進出の好機となった。韓国企業による中東での建設受注は、73年に2410万ドルで、ピークとなった81年には126億7060万ドルに達した。多くの財閥がこの時、先を争うように建設業に参入して大きな利益を上げた。
通貨危機で政権の庇護失う
財閥ドットコムの鄭先燮(チョン・ソンソプ)代表は、「権力との関係を維持できている限り、財閥が破産することはなかった」と指摘する。韓国の財閥は、政権との密接な関係を背景に成長してきたからだ。逆に、権力ににらまれた財閥は、姿を消していった。
それが変わったのが、1997年の通貨危機だ。韓国は大胆な構造改革を余儀なくされ、新自由主義的な経済政策への大転換が行われた。結果として、超競争社会が現出し、その中で勝ち残ったサムスン電子やLG電子、現代自動車は世界的企業へと成長した。