2024年11月21日(木)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2015年3月5日

 コラムが挙げたこの「三つの誤った議論」はいずれも、習政権の進める腐敗摘発運動に対する批判的意見であることは明らかであるが、一体誰がこのような批判の声を上げているのか、コラムでは触れていない。しかし一般的に言えば、「腐敗摘発やり過ぎ論」と「腐敗摘発泥塗り論」の二つはやはり、共産党政権内からの批判ではないかと推測できる。つまり腐敗摘発運動の中で身の危険を感じたり賄賂が取れなくなったことに不満を募らせたりしている党内の幹部が、「それはやり過ぎではないか」という反発の声を上げている一方、「党の名誉を守る」という大義名分を持ち出して腐敗摘発運動を批判するような動きも始まっていることがこれで分かったのである。

 実際、人民日報のコラムもその文中で、「今警戒しなければならないのは、一部の人が“腐敗摘発泥塗り論”をぶち上げて、反腐敗運動の推進を阻止しようとしていることだ」と指摘しているのだが、この「一部の人」は腐敗に染まっている党内の幹部を指しているのだろう。

 そして最後の「腐敗摘発無意味論」はむしろ、民間からの議論ではないかと思う。多くの民間人は今の腐敗摘発を見て、「共産党幹部は皆腐敗しているから、いくら摘発しても終わらないからそもそも無意味ではないか」と冷めた見方をしていることが推測される。

 つまり、習近平指導部が進めている現在の腐敗摘発運動は党内からの反発に遭遇して民間の一部からも冷ややかな目で見られていることが前述の人民日報コラムから窺える。さらにこういった批判的な声が無視できるほどの少数派意見でないことも、人民日報がわざわざそれを取り上げて批判していることからも分かる。

「一過性のキャンペーン」と思っていたが……

 考えてみれば、それはむしろ当然のことであろう。今の中国共産党政権内では、腐敗に手を染めないような幹部はほどんと存在せず、幹部集団のほぼ全員と言っても過言ではない人たちが、何らかの形で腐敗・汚職に関わっているのが実状である。共産党の幹部たちにとって、「腐敗」というのはむしろ幹部としての当然の利権という感覚なのである。おそらく彼らからすれば、「腐敗してはならない」というのは、「食事をしてはいけない」と同じ意味になるのであろう。

 習近平指導部が腐敗摘発運動を開始した当初、共産党幹部の大半はそれが「一過性のキャンペーン」だと割り切って、身を構えて過ぎ去るのをじっと待っていれば良いと考えていたに違いない。しかしこの一過性のはずの「嵐」がいっこうに去らず、習近平指導部がどこまでも執拗に腐敗摘発を進めていくのであれば、話が違ってくるのだろう。腐敗撲滅運動が継続していけば、幹部たちは命同然の「腐敗利権」を失うだけでなく、今までこの腐敗利権を貪った分、今後は誰でも摘発される危険にさらされることになるのである。


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