当時の日銀副総裁だった、故三重野康氏の日銀が保存している証言録によると、同氏は総裁である大蔵省出身の澄田智氏に、公定歩合の引き下げはバブルをさらに膨らませるから避けるべきであることを強く進言していた。宮沢―ベーカー合意は事前に知らされず、まったくの寝耳に水であった、という。
89年12月29日、東京証券取引所の平均株価は3万8000円台をつけた。都心部を中心とする地価の高騰は、郊外の住宅地に拡大していった。
そして、年が明けたバブルは崩壊する。
経済成長のけん引役となる、故下村治氏
「“高度成長”」の物語は、その設計者としてひとりの大蔵官僚に焦点をあてる。故下村治氏である。
戦後の闇市を歩き回って、下村氏は庶民の消費意欲の旺盛さと、市場にあふれる商品の価格と量をメモして回る。そこには、経済成長のけん引役となる、消費意欲と生産意欲があった。
ケインズ理論を学ぶことから経済の実態の解明をはじめた、下村氏は独自の理論を打ち立てる。それは、経済成長のためには、企業が設備投資をしやすくする環境を整えることである、というものである。
しかも、日本経済には10%成長が10年間続く、潜在成長力がある、という主張につながった。
1960年7月に首相になる、池田勇人氏が政権につく前の勉強会で下村氏と出会い、「所得倍増」のわかりやすい政策目標を掲げたのである。
高度経済成長は、下村氏の予測を超えて、1954年から20年にわたって続いた。
下村氏の証言をビデオに収めた過去の映像が紹介される。番組のなかで、もっとも印象的なシーンのひとつである。
下村氏は証言する。