関屋の選手生命を奪う音が、球場中に響き渡った。関屋には、滑り込む瞬間からの景色が「スローモーション」で見えていた。前十字靭帯、後十字靭帯、内側側副靭帯断裂。回復を待ったが、10月、再び電話が鳴った。
「球団事務所へ来てくれ」
入団して1年も経っていない関屋は、「初対面」の球団職員から、人生二度目の戦力外通告を受けた。合同トライアウトの説明書類を受け取り、あと1カ月で完治するはずのない膝を見ながら、関屋は思った。
「この人は、俺が怪我をしていることすら知らないんだな」
合同トライアウトの書類を球団事務所のゴミ箱に捨て、関屋は実家のある愛知県へ戻った。
馴染めなかった野球以外の仕事
セカンドキャリアが始まる。意外に思われる方が多いかもしれないが、戦力外通告を受けたプロ野球選手の就職先は比較的容易に見付かる。礼儀正しさ、体力、話題性など、採用する側にとって、魅力が多いからだ。
しかし、野球に人生を懸けてきたプロ野球選手は、どの仕事を選んでよいのかわからない。とりあえず就職するが馴染めずに辞める、というパターンを繰り返すことが多い。
関屋は親から、「専門学校などへ行ったらどうだ」と勧められるも、聞く耳をもたなかった。「一日も早く世の中に出て働きたい。野球以外でもやっていけるということを証明したい」。
東京にいる先輩の家に転がり込み、2週間ほどそば屋で皿洗いのバイトをしながら職を探した。次々に流れてくる皿を必死に洗いながら、「働くって、キツイな。野球をやっていた頃は幸せだった」と感じていた。バイトをすること自体も初めてであった。ぎこちない日々の中、先輩の紹介により大手自動車メーカーの営業として職に就くことになる。
職場は東京の大塚、業務は主に飛び込み営業だった。玄関先でチャイムを鳴らし、初対面の相手と話をする。ただでさえ大きな体に、これまで営業トークなどしたこともない関屋は、相手を萎縮させ、話を聞いてもらえなかった。営業マンとしての成績を出すことができない日々。そして、プロ野球選手時代に染み付いた金銭感覚も、簡単には戻らなかった。