電気工事か狂言かの迷いは、まだ狂言ブーム到来の前でもあり、狂言師という職業で食べていけるのだろうかという悩みでもあった。しかし、高校三年になりいよいよ選択が目の前に迫った時に、電気工事が消えていた。そして選んだ道は大阪芸術大学舞台芸術学科への進学。自分の思いに忠実に一歩を踏み出した大阪芸大時代に受けた刺激が、明確に狂言の世界で生きる覚悟を固めさせ、同時に今の千三郎の精力的な活動の原点になった。
「先輩に当時学生劇団だった『劇団☆新感線』の筧利夫や渡辺いっけい、後輩には古田新太などがいて、本当に刺激的な四年間でした。熱く語り合い、芝居を作り上げ、どうやって客を呼ぶか興業も考えている。そんな姿を目の当たりにして、能狂言はこのままではいけないと思いました」
突破の精神を継承
関西の小劇場ブームを巻き起こした「劇団☆新感線」の創設時のパワーが、生まれた時から馴染んでいる狂言界との違いを強烈に感じさせたのだろう。古典芸能として保護されているうちに時代の感性とかけ離れてしまってはいないか。時代を生き抜くエネルギーを内包しているのだろうかと自問する日々。
「狂言は後援会に支えられて、切符を自らの手で売ることもなかった。自分で生み出したものを自分の手で懸命に売り、お客様に来ていただく。そこから意識を変えなあかんと思いましたね。そのために後援会からファンクラブに変えなければと思いました」
現代を生きる人々にファンになってもらうためには、自らが狂言の楽しさを伝えるための努力をしなければならない。若者の危機感は、まっしぐらの行動力につながる。若手の大蔵流狂言師のグループ「花形狂言会」に加わり、「花形狂言少年隊」などとも切磋琢磨しながら場所を選ばず神出鬼没の活動を繰り広げ、他ジャンルの人たちとも積極的に交流していく。そして一九九九年には、「TOPPA!」という若手六人の会が生まれた。TOPPAは音にすれば“とっぱ”、漢字をあてれば突破になる。“とっぱ”は安土桃山時代に活躍した狂言師の名でもある。
大蔵流狂言では、高度な技術を求められる「釣狐(つりぎつね)」、謡(うたい)とセリフの技が込められた「花子(はなご)」、芸の深さと奥行きを試されるような「狸腹鼓(たぬきのはらづつみ)」を最も難度の高い曲とし、極重習(ごくおもならい)と呼ぶ。「狸腹鼓」はとっぱの作とされている。すでに出来上がった最高の型である「釣狐」を狸に置き換えたパロディー「狸腹鼓」にしようと思いついたとっぱという人物は、相当に型破りで当時の狂言界でも飛んでいた人なのだろう。