これらの課題への対応策として導入されたのが、パレスチナ母子健康手帳であった。母子手帳を持参していれば、保健所への道が閉ざされても、別の医療機関で適切な医療を継続して受診することができる。母子手帳には妊娠、出産の経過や医療処置、子どもの予防接種や成長の記録が記録されているからだ。また子どもが病気になったとき、検問所の長い列に並んで病院へ行くか、自宅で処置するか、判断に困ったときや、家庭で両親が子育てや健康について話し合うときにも、手帳が活用される。手帳には、妊娠、出産、子育てに役立つ保健情報がイラストとともにわかりやすく掲載されている。日本のような育児雑誌も普及していないパレスチナの母親にとって、母子手帳から得られる情報は命綱となる。
パレスチナでは、医療従事者が母親への保健指導に、また、自宅での夫婦間で出産や子育てについての話し合いなどにも、母子手帳が活用されるようになった(※出所)。妊娠中の危険な兆候に対し、母親自身が気づき、迅速に医療機関を受診できるようになった。妊娠出産、乳児の緊急事態に備え、夫の役割がより明確に理解されるようにもなった。
※Hagiwara A, Ueyama M, Ramlawi A, Sawada Y. Is the maternal and child health (MCH) handbook effective in improving health-related behavior? Evidence from Palestine. J Public Health Policy. 2013;34:31–45. doi: 10.1057/jphp.2012.56.
アラビア語で初めての母子手帳
パレスチナ母子手帳は2005年から開発がすすめられた。アラビア語で初めての母子手帳の開発は困難を極めた。母子手帳の存在を知らないパレスチナの人々に、その役割を知らせるために、ラジオや新聞、街頭看板、集会など全国的なキャンペーンを行った。また、母子手帳を活用するための医療従事者向けの技術訓練や制度づくりも手帳の開発と並行して実施された 。医療従事者や行政官には、来日研修も実施し、現場視察や講義を通じ、日本の母子手帳の仕組みを徹底的に知らせた。紛争の激化により、プロジェクトが中断しかけたこともあった。
ガザ地区とヨルダン川西岸地区は物理的、政治的に分断されていたため、テレビ会議や電話で全国普及のための会議を行った。西岸で印刷した母子手帳は、ワクチン運搬車両の片隅に積んで、ガザに届けた。これらの活動の結果、2008年に手帳が完成してから、3年後には、西岸地区の89%、ガザ地区の63%の母子が母子手帳を利用するまでに手帳は広まった(2010年パレスチナ世帯保健調査「Palestinian Ministry of Health (2012) The Overview of MCHHB in Palestine. 」) 。さらに、UNRWAを通じ、2010年からヨルダン、シリア、レバノンのパレスチナ難民にも活用されるようになった(JICA’s World 2011年2月号 手帳がはぐくむ希望)。