「イタリア人と、“生きている実感を得る時はいつか?”という話になった。彼らは、“人とコミュニケーションをとっている時”と答えた。もう、G.G.佐藤という別人格は、必要なくなったよ」
本来、心の優しい男である。毎日のように友人と食事に出かけ、ワインを飲み明かした。心から野球を楽しみ、生活を楽しみ、人とコミュニケーションをとることを楽しんだ。この時の生活が身にしみているのだろうか、イタリア仕込みのG.G.佐藤は、いつもオシャレである。
12年9月。完全に自分らしさを取り戻し、心はいつしか「もう一度日本で」と、日本球界復帰も視野に入っていた。それでも、もともと野球を辞めるために行ったイタリア。辞めるにはいいタイミングだった。自分をプロ野球に引き入れてくれた恩師・伊東勤氏(現千葉ロッテ監督)に電話をし、辞める意向を伝えた。すると10月、伊東氏の千葉ロッテ監督就任が決定。今度は伊東氏から電話があった。
「まだやれるかどうか見たいから、秋季キャンプに来てくれ」
急遽体を作り直し、キャンプに参加。翌年から、千葉ロッテの一員としてプレーすることが決まった。
「日本一」の直後に非情の通告
「最後のロッテでの2年間は、本当に最高の時間だった。全てから解放され、楽しむことができた」
生まれ育った千葉で、野球人生の最後を全うした。14年10月4日。宮崎県で行われた2軍の日本一を決める“ファーム日本選手権”に参加し、見事優勝した。意気揚々と宿舎に引きあげ、ユニフォームを着替えている時、電話が鳴った。
「今から、スーツに着替えて部屋に来てください」
2度目の戦力外通告。いつ辞めてもいい覚悟はずっとしてきた。G.G.佐藤の口から出てきたのは感謝の言葉。大量に溢れ出る涙は前回の涙とは違い、「やりきった」という思いを表現するかのようにとめどなく溢れた。
引退を決めた3日後。次の人生への最初のアクションは、ある人物への電話だった。父親である。G.G.佐藤は、父親と会うため、アポイントの電話を入れた。
「自分が小さい頃から会社を経営する父親は、仕事が大好きで会社への愛が深い。そんな父親を心から尊敬していた。その父親が大切にするものを守りたい。頭を下げて、会社に入れてください、とお願いをした」
「頑張れ」と、尊敬する父親の一言から、セカンドキャリアは始まった。