2024年12月13日(金)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年4月7日

 限界だった。もともと心優しい男が、プロ野球という勝負の世界で生きていくには、別人格を作り出す必要があった。誰とも食事に行かず、孤独にトレーニングに励む日々。全てはこの世界で成功するため。作り上げたG.G.佐藤という別人格はプロ8年目の2011年、ついに壊れてしまった。

G.G.佐藤(佐藤隆彦)G.G.Sato
1978年千葉県市川市生まれ。野村沙知代氏が監督を務める港東ムース、桐蔭学園高校を経て、法政大学に入学するもレギュラーになれなかった。一時期グラウンドに顔を出さず、パチンコや合コンに明け暮れたが、一念発起してホームランバッターへの転身を目指す。部屋にボディビルダーの写真を飾るなどしてモチベーションを高め、ウエイトトレーニングに精を出した結果、飛距離が劇的に伸び、卒業後渡米することに。2003年ドラフト7巡目で西武ライオンズへ入団。08年北京五輪代表。「人生で一番緊張した」という準決勝の韓国戦で敗戦に繋がるエラーを犯す。この年、オールスターのファン投票で最多得票を獲得する。登録名の「G.G.佐藤」は中学生の頃「顔がジジくさい」と言われていたことに由来。
(写真・NAONORI KOHIRA)

 「思うような結果が出なくて。だから悔しくて一生懸命練習して、家に帰っても練習して。気がつけば夜中の3時。2軍の朝は早いから、6時には起きる。そんな生活を1カ月以上続けていた」

 25本塁打に83打点というキャリアハイを記録したのが2年前の09年。故障も重なり、思うようなプレーができずにいた当時、とにかく必死だった。極端に短い睡眠時間に加え、炎天下で体を酷使する生活を続けた結果、気がつけば救急車の中にいた。

 「その時、動悸がすごくて、怖かった。それ以降、試合で緊張するとその動悸を思い出して、まともに立っていることすらできなくなってしまった」

 10月、西武ライオンズから戦力外通告を受けた。正直、野球ができる心と体の状態ではなかった。幼少期から自分を野球選手にするべく、どんな時も支えてくれた父に、「野球ができなくなってしまい、申し訳ない」そう謝罪した。父は、「ありがとう」と、戦い抜きボロボロになった我が子をねぎらった。その瞬間、溢れ出る涙とともに、G.G.佐藤の本当の野球人生が始まった。

 「親父の“ありがとう”で、全ての肩の荷が下りた。これからは、本当に自分のやりたい野球だけをやろう。最後は、野球を好きになって辞めよう」

 プレッシャー、競争、勝負。全てを振り切り、イタリアに向かった。

 「イタリアでは、野球というスポーツがあること自体ほぼ知られていない。そんな中で野球をやっているヤツは、本当に野球が大好きで、野球に魅了されているヤツばっかりなんだ」

 目を輝かせて話すその目は、野球少年そのものだ。野球が全てだった人生であったが、飛行機で半日も飛べば、野球など誰も知らない世界が広がっている。恵まれた環境ではないうえ、皆普通に仕事をしながら週に数日の試合をする。全てが新鮮だった。


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