1975年生まれ。神戸市出身。 滝川第二高校1年生の冬に傷害事件を起こし、退学。その後も2件の傷害事件を起こし、半ば両親に追放されるかたちで渡米。1Aサリナス・スパーズに球団職員兼練習生として入団。洗濯係、ボールボーイ等を主に務めた。96年にシアトル・マリナーズでメジャー初登板。日本のプロ野球を経ない初のケースで、野茂英雄氏に次ぐ3人目の日本人メジャーリーガーとなった。
その後、メジャーリーグの球団を転々とし、メジャー通算16勝をあげる。2002年のドラフト会議にてオリックス・ブルーウェーブが2巡目指名。05年に戦力外通告を受ける。以降、ドミニカ、メキシコ、台湾、ベネズエラ等で活躍。11年に関西独立リーグの神戸サンズの選手兼監督に就任し、シーズン終了後に退団。
(写真・NAONORI KOHIRA)
「最初のクビは高校1年生やからな」。豪快に笑いながら、マック鈴木が話を切り出した。
「メッツへはトレードだったか。ロイヤルズは2回クビになってるし、ブリュワーズ、カブス、アスレチックス、オリックス……」。ここまで数えたところで、思い出すことをやめた。
「まぁ、アメリカやと、日常やからね。朝ロッカーに行ったら、ネームプレートが変わってて、荷物が整理されてる。そのあと監督室に呼ばれて、”We really like you, but no space for you (オマエのことは大好きだけど、このチームに居場所はない)”と言われ、次の日には違うチームへ。〝戦力外通告〟ってのが、大袈裟っちゃ大袈裟だよね」
高校1年生の大晦日。傷害事件を起こし、学校を退学となる。人生1回目のクビは、16歳で訪れた。別の高校へ編入予定の最中、またしても警察のお世話になり、父親の逆鱗に触れた。
「半ば強制的にアメリカへ行かされた。『チキンオアビーフ』もわからんくらい英語もできない。どうなることか、最初はかなり不安やったな」
アメリカでは、団野村氏が経営に携わるマイナーリーグ1Aのチームに球団職員兼練習生として参加した。球場の椅子を拭き、選手のユニフォームを洗濯する日々。野球に関われるのは、バッティングピッチャーや球拾いとランニングのみ。月300ドルの給料で、主に球場に寝泊まりをした。しかし、チャンスは突然やってくる。
「最終戦の142試合目に、たまたま団野村さんの前を通ったら、『試合に出るか?』って。その試合で94マイル(約151キロ)を記録して三者凡退に抑えると、試合後には、鈴木『くん』とくんづけになってた」
翌年、別の1Aのチームへ正式な選手契約で移籍した。2月、既に2人が住んでいるワンベッドルームの部屋に転がり込み、近くの公園で練習に励んだ。公園の端からボールを投げ、自分で取りに行き、またボールを投げ返す。キャッチボールの相手すらいない環境で体を仕上げた。迎えたシーズン、18歳でクローザーを務め、97マイル(約156キロ)の速球を武器にリーグで14セーブを記録し、一気に知名度を上げる。ちなみにこの年の給料は月500ドル。
「マーリンズから、500万円ほどで契約してほしいという電話がかかってきた。団さんに相談している2週間ほどの間に、マリナーズからきたオファーは1億円に値上がりしていた」