日本球界を経て世界各国を「漂流」
「そろそろどこのチームからもオファーがこない雰囲気になってきたところで、日本からの話があった」
03年、ドラフト指名される形でオリックスに入団。メジャーを経験した28歳のオールドルーキーとして注目を集めたが、思うような成績を残すことができないまま3年が過ぎた。「ただただ自分の力不足。何の言い訳もない」。
05年、3年目が終わるときに、球団から呼び出された。戦力外通告だった。
「アメリカへ“帰ります”」
鈴木は即答し、ドミニカのウインターリーグへ向かった。以降5シーズン、春はメキシコ、夏から秋は台湾といったように、世界各国を飛び回った。11年、日本の独立リーグ神戸サンズの選手兼監督に就任し、同年退任した。
「16歳のあの時、アメリカに行かんかったら、ホンマにろくでもない人間になってたと思う。そうならんかったんは、野球のおかげ。野球があったから、今がある」
現在は地元・神戸で、野球や英会話を教えるスクールを開校している。自分の体一つで世界中を飛び回りプレーした経験から、「語学力」は必要だと話す。
「グローブ1つ持って飛行機に乗り込み、投げて契約する。言葉さえしゃべる事ができれば、世界中どこへだって行くチャンスがあるんだということを、今の子供たちに伝えていきたい」
人生において道を踏み外しそうなとき、うまくいかないとき、熱中できるものがあれば、それが自分を助けてくれる。
「何かにつまずいたとき、いつも野球が助けてくれた。なんだっていい。自分の武器を見つけてほしい。そして、それはいつでも世界で勝負できる」
高校退学後に洗濯係からメジャーリーガーになった男。その物語はまだ、続いて行く。
[修正履歴]2ページ目「翌2000年には、ペドロ・マルティネス、ロジャー・クレメンスに続く3番手投手として8勝を挙げる」との記述に誤りがありましたので、「翌2000年には、8勝を挙げる」に訂正し、お詫びいたします。(2016.3.19 2:13 編集部)
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