●自分が禅僧になろうとは思わなかったんですか?
――思わなかった。じつは高校時代の親友のうち、二人が禅僧になったんだ。修行のことは、二人にまかせたというわけでもないが、こういう仕事をやっている中で、わしにはわしにしかできないことがあるだろうと思っている。禅や白隠に共鳴した人が全員坊主にならないといかんなんてことはないだろう。自分は本を書いて伝えることを選んだ、と言えなくもない。僕は寺の門前に生まれて、いまも門前の小僧をやっているようなもんだな。
白隠は有名といえば有名だが、その核心はまだまだ広くは知られていない。昔、自分が白隠を嫌いだったのは、白隠についての解説書を読んでもつまらなかったから。白隠そのものはおもしろいのに、他人の考えを通して勝手につまらないと思っていてはもったいないよな。自分の目でその人の核心に触れて、自分の頭で考え、自分で納得しないとだめなんだ。
現代人は白隠を読むと元気になると思うよ。字とか絵とか、直感的に見るとちょっと鼻につくところがある。でもそれはエネルギーが強烈ということ。岡本太郎に近い、という人もいるね。お母さんの岡本かの子は熱心に白隠を読んでいたことで有名だし。
●先生は白隠の布袋図はメビウスの環に他ならないと述べていますが、ちょっと違いませんか? だって、白隠のこの紙は、つながってませんよね。
――よくそういう屁理屈をこく人がいるんだよ。まん中に人間がいて紙を持っていることこそが大事。人間の認識や営為が介在すること、人間の主体性があることを示しているんじゃないか。その意味で、白隠の絵はメビウスの環を越えていると言える。
そこに人間がいなかったら、人生が入っていなかったら、宗教の絵じゃない。まん中に布袋の絵があることで、我々に問いかけているといってもいいし、我々を引き込んでいるといってもいいだろう。
なんていうふうに、たった一枚の白隠の絵をみんなで囲んで話し合ったら、けっこういろんなことが出てくるんだよ。300年たってもネタになる絵を残したんだから、たいしたもんなんだよ、白隠は。
●先生は白隠の生まれ変わりだ、なんて思っているんですか?
――あほな。まったく思わない。わしはただ、白隠の優れた通訳者でありたいんだ。世の中に何か少しでもお役にたてればいい。第一、白隠はまだ生きているんだよ。あれだけの膨大な作品が残っているわけだから。偉大な思想というのは絶対かわらない。キリストなんかもそう。時間がたとうが、日本みたいな極東であろうが、本当に優れたものはなくならない。それに自分が気づくか気づかないか。
●あの、白隠がそんなすごい人だったら、いま頃みんな知っててもいいのでは・・・?
――そう、それが大問題だ。一つには、宗教家がいけない。これまで宗門が自分たちの中に白隠を囲い込んできたんだ。だから、白隠という人物の本質を真剣に引き出すようなことがなされてこなかった。白隠以降に作り上げられた修行のシステムだけを取り込んで、それでいいんだと思ってやってきたのが問題なんだ。だから、白隠がかつて社会にむかって発信した、さまざまなメッセージが冷凍状態になってしまった。形骸化と言ってもいい。
禅にはタブーみたいなものがあってな。つまり、修行することが第一であって、研究なんかしてはいかんという。とにかく自分で体験しないといかん。体験の話を科学的なアプローチで切ることに意味はない。そういう雰囲気が支配してるんだ。白隠がどういうことを言ったのかを研究するよりも、自分でひたすら座禅を組むことが大事という風潮がね。それが、白隠の精神を冷凍することにつながったのではないかな。
だから、僕がやっていることは、これまで冷凍状態になっていた白隠を、解凍して現代に活かすということだと言えるかもしれない。でもな、解凍っていうのはむずかしいんだよ。熱を加えすぎると、せっかくのものがこわれてしまう。新鮮な状態に戻すには、繊細な手加減が必要なんだ。解凍する立場の者が前に出すぎてもいかん。マグロがなんでおいしく食べられるかといったら、そこには高い解凍技術があるわけだよ。