「アメリカ黒幕説」の唯一の根拠は、柳井俊二氏という一人の日本人の存在である。
人民日報や新華通信社の主張によると、元駐米大使である日本外交官の柳井俊二氏は、国際海洋裁判所裁判所長の在任中、オランダ・ハーグの仲裁裁判所の仲裁裁判官の5人中4人を任命したという。だからこそ、中国に不利な裁定が出たわけである、というのだ。中国側はまさにこの一点を以って、南シナ海裁定は「アメリカ主導、日本加担の茶番」だと認定した。
正気な人ならば、この程度の根拠による「黒幕説」はこじつけにもならない荒唐無稽なものであると一目で分かるだろう。反論にも値しないような出鱈目というしかない。
しかし中華人民共和国政府は堂々と、まさにこの根拠にもならない「根拠」を以って、アメリカという国を裁定の「黒幕」だと断定し、日本までを「加担者」に仕立ててしまった。中国はそこまでして、一体何を企んでいるのだろうか。
「法への抵抗」から「正義の戦い」へ?
中国政府はそこまで無理をしてでも、アメリカを「黒幕」に仕立てようとしたのには、二つの狙いがあろう。
一つはすなわち、裁判所の裁定それ自体の正当性を根底からひっくり返すことにある。つまり、裁判所を操っているのは自らの覇権を守ろうとするアメリカであり、そして今回の裁定は単なるアメリカの私利私欲から発した謀略の結果であれば、もはや何の公正性も正当性もない。したがって中国政府は当然、それを完全に無視し、拒否することができるのである。
もう一つの狙いは、アメリカを「黒幕」だと決めつけることによって、今回の裁定の一件を、「中国vs仲裁裁判所」の構図から、「中国vs強権国家・アメリカ」という戦いの構図へとすり替えることであろう。中国は最初から仲裁裁判所の裁定を一切拒否する構えであった。しかしそれは、仲裁裁判所に対する中国政府の抵抗だと国際的に認識されていれば、中国の分は悪い。国際社会から「裁判の結果に抵抗する無法者」のように認定されてしまう。
しかしそうではなく、仲裁所は単なる操り人形であって、アメリカという国こそがその「黒幕」であるなら、中国の裁定拒否はもはや「法への抵抗」ではなく、アメリカの強権に対する中国の「正義の戦い」となるのである。
まさにこの二つの理由を以って中国は、宣伝機関の総力を挙げてアメリカを「黒幕」に仕立てようとしていた。それがもし成功していれば、中国は国際法のルールに公然と反抗するような無法国家として見なされるのではなく、むしろアメリカの陰謀に敢然と立ち向かう「勇士」として評価されるのかもしれない。そして、中国政府が今回の窮地からやすやすと脱出できるのではないかと習政権が計算しているのであろう。