福田さんに挨拶をした。「私(だけ)は約束通り来ましたよ」と言いたいところだったが、他にも新聞記者数人とテレビのクルーが来ていた。福田さんたちが声をかけたらしい。福田さんが言う。
「双葉町(の役場主催の慰霊祭)は先週の日曜日(7日)にやったけど、今日やるのが正解だよ。5年やったからもういいかとも思ったけど、何も変わってねぇもん。変わったのは仮設の人数と双葉町の人口だけだな。
俺もここでがんばるつもりだけど、借り上げ住宅は来年3月で終わる。復興住宅はたぶん、それに(3月に)間に合わないから、借り上げを出たら仮設に戻るしかない。5年経っても本当に何も変わってないんだよ」
集会場の正面には地元の葬儀社提供の祭壇と観音像、その前に献花台がある。慰霊祭は地震の発生時刻、2時46分からスタートすることになっていたが、2時になっても仮設の住人の集まりは悪かった。50脚近いパイプ椅子が並べられているのに、会場には福田さんたちスタッフと葬儀社のスタッフ、そしてマスコミ関係者しかいない。
ああだ、こうだ言われたくない
やがて、「仮設のおばば」たちが4、5人連れだって入り口に姿を見せた。おばばと呼ぶには元気がよすぎる。
「テレビ来てない?」
「来てないみたいだよ」
「来てなきゃいいんだけどさぁ」
こんな会話が聞こえてきた。私は、気が重かった理由のひとつに、これがあったことに気づいた。被災者に話を聞くのは、とても気が重いことなのだ。しかし、そんなことを言っていては仕事にならない。気を取り直して、女性のひとりに声をかけた。
「ウェッジ? 知らないよ」
「あの、新幹線のグリーン車で配ってる雑誌あるじゃないですか、あれのウェブ版です」
「グリーン車なんて乗らないもん」
けんもほろろである。それでもしつこく話を聞こうと食い下がった。たとえ使命感はなくとも、仕事をしないわけにはいかない。
「あのね、なんでいまだに仮設にいるんですかって聞くこと自体が間違ってる気がするよ。だって、行くところがないんだから。平穏に暮らしているのに、ああだこうだと言われたくないよ。こういうイベントを外に知らせるのはいいと思うけどさ、個人的に雑誌とかテレビに出るのは嫌だよ」
もっともな話だ。名前を出さずに話だけ聞かせてもらうことにした。
この女性は70歳を少し過ぎていた。双葉町で生まれて、双葉町以外の場所で生活をしたことは一度もなかったそうだ。避難勧告が出て、最初は川俣町に逃げ、次に友だちの娘が東京にいるというので、友だちの車で東京に行って2泊した。そこから板橋区の姪の家に移って10日間を過ごし、テレビでさいたまスーパーアリーナに双葉町の人が集まっているのを知って、「行ってみっか」と毛布一枚だけ持ってスーパーアリーナへ向かった。そこで双葉町の人たちと合流して10日間雑魚寝をした後、埼玉の加須市にある埼玉県立騎西高校にバスで異動。双葉町町役場の機能も騎西高校に移り、双葉町の住民1,200人がこの廃校で避難生活を送ることになった。