2024年4月24日(水)

『いわきより愛を込めて』

2016年8月15日

 一方で、いろいろなことがきちんとしないと双葉町に帰りたくないという女性の言葉も、また本音なのだと思った。人間は意地だけでは生きられない。故郷を思う気持ちだけでも生きられない。生活インフラが整わなければ、人間らしい生活はできないのだ。長い避難生活を送っている女性は、それを嫌というほど味わってきたのだと思う。

 集会場を出て復興支援バスのバス停に向かいながら、いったい自分がどういう立場で何をしようとしているのかが、よくわからなくなってきた。被災者の現状を報道する使命感などというものは、たぶん私のどこを探してもない。仮設で暮らす人に、強烈なシンパシーがあるわけでもない。しかし、確実になんらかの引っかかりはあるのだ。

 果たして、自分の立ち位置はどこにあるのだろうか……。

 東京に戻ってこの立ち位置の問題を考えているとき、震災当時のある出来事が鮮明によみがえってきた。

 それは、福島第一原発の1号機が水素爆発を起こした直後のことだった。私は東京駅構内の飲食店で、ある雑誌の編集者から仕事の依頼を受けていた。編集者は新潟で取材があるから、どうしても行ってほしいという。東北新幹線は止まっているが、上越新幹線は動いているし新潟は放射能の危険もないと彼は言う。たぶん、私の他に行きそうな人間がいなかったのだ。

 余震で頻繁に揺れる店内で、仕事の打ち合わせはいつしか原発事故の報道のあり方というテーマに傾斜していった。あの時、テレビで頻繁に使われたのが、「ただちに健康に影響はない」という表現だった。私はこの言葉に激しい苛立ちを感じていた。「健康に影響はない」と言いながら、しっかり「ただちに」というエクスキューズを入れている。そこには、端的な「隠ぺい」の臭いが漂っていた。

マスコミは本当のことを隠している

 「テレビも新聞も真実を伝えていないと思う。マスコミは真実を伝えるのが使命なのに、本当は知ってることを隠してるんじゃないか」

 私の発言に対する編集者の返事を、私はいまだに忘れることができない。

 「馬鹿言うな、一般の人間に真実なんて伝えたらパニックを起こして大惨事になるに決まってる。あえて真実を伝えない方が、結果的に被害を最小限に食い止めることになるんだ。お前みたいな人間のことをな……」

 彼も興奮していたのだと思うが、たぶん「非国民と言うんだ」と続けたかったのだと思う。

 私は私で、「そういう姿勢は大本営発表と同じだ」と言いたかったのだが、やっとの思いで口をつぐんだ。議論は平行線のまま、同席していた若い編集者の、

 「どっちもどっちですね」

 という一言で、幕となった。

 私の心の中で福田さんや中谷さんの「意地」に共鳴しているのは、おそらく「ふるさとを思う気持ち」などではないのだろう。私は父の転勤に伴って何度も引っ越しを繰り返した、昔でいうデラシネ(根なし草)だ。双葉町の人たちと離ればなれになりたくないという件の女性の気持ちも、頭では理解できても、心から共感するところまではいかない。

 私が福田さんや中谷さんに仮託しているのは、おそらく「大本営発表に対する不信感の表明」であるに違いない。そして、その不信感は、遠く、第二次大戦の評価に根を持っている。

 よく、反原発は憲法改正反対とセットになっていると言われるが、あながち的外れな指摘ではないと私は思う。ふたつの根にあるものは、たぶん同じだ。


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