なんで避難しているかわからない
「なんで避難してるんだか、いまだによくわかんないんだよ。埼玉の人たちが(廃校を)掃除して、畳敷いて、布団も入れてくれたから、地震から1か月ぐらいたって、やっと人間らしい生活ができたんだ。埼玉の人には感謝していますよ。でも、人間らしいっていったって、ひとり当たり1畳半ぐらいだからね。仕切りも何もない教室に20人、家庭科教室なんて35人もいたんだ。仮設になかなか入れなくてね、加須に1年半いたんだからね。
借上げは、仮設と同じ条件で入れたんだけど、知り合いとバラバラになっちゃうからね。仮設は双葉の隣近所の人がいるから安心できるんだ。知らないところに、ひとりでポツンと暮らすのは嫌だよ」
70歳近くまで双葉町だけで暮らしてきた人が、誰も知り合いのいない環境で暮らしたくないと思うのは当然かもしれない。故郷には、いつ帰れるのだろうか。
「双葉町には帰りたくないよ。一度家を見に行ったけど、ネズミの糞がすごいんだもの。きちんとなったら帰りたいけどさ、いま、復興住宅に申し込みしてるんだよ。抽選だけど、仮設の人は入れるらしいよ。道の向こう(仮設の外の住宅)の人とは、交流ないね。
それでも女は強いよ。友だちとお茶飲んでおしゃべりしたり、あちこちに散ってる友だちと連絡とって会ったりさ。仮設だって、狭い分冷暖房がよく利くから悪いばっかりじゃない。男は弱いよね」
女性はかつて双葉町の町営住宅に住んで、夫とふたり、小さな畑で野菜をつくるのを楽しみにしていたという。
なぜ避難しているかよくわからないという言葉に、原発事故の特徴が見える気がする。町も家もそのままなのに、そこに帰ることが許されないという状況が、避難の理由をぼやかしてしまう。
「何にもなかったら、平穏に暮らせたのにね。口ではいろいろグチグチ言うけれど、心の中ではもうあきらめてるんだよ」
2時46分が近づいてきた。集会所に仮設の住人が入ってくるたびに、テレビクルーが駆け寄ってカメラを向け、マイクを突き出す。たしかに、あれをやられたら嫌だろうなと思うけれど、カメラとマイクを持っていないだけで、やっていることは自分も変わりない。
福田さんがスマホで「時報」に電話をかけ、その音をマイクで拾って集会場に流し始めた。
「ピッ、ピッ、ピッ、ポーン。午後2時45分10秒をお知らせします。ピッ、ピッ、ピッ、ポーン。午後2時45分20秒をお知らせします……」
それまで沈滞した雰囲気だった会場に、にわかに緊張感が漲ってきた。会場には双葉町の職員やボランティアのスタッフもやってきて、椅子は30脚ほど埋まっただろうか。
主催した「夢ふたば人」を代表して、まだ30代の中谷さんが挨拶に立った。
「あの日から5年が経ってしまいました。早かった5年、遅かった5年……。ひとつだけ言いたいのは、絶対にあきらめないで下さいということです。あきらめなければ、絶対に成果はついてきます」
2時46分。福田さんが持参したサイレンを鳴らした。参加者全員が起立して、黙祷を捧げた。中谷さんが言った。
「やっぱりこの時刻にやると、胸に迫るものがありますね。問題はいったい誰が帰還を遅らせているかです」
福田さんが言った。
「やっぱり、南台でやるしかないっしょ」
ふたりは、このあと地元のラジオ番組に出演するのだといって足早に会場を後にした。私は「絶対にあきらめない」という中谷さんの言葉に、「意地」を感じた。そして、その意地に共鳴するものが自分の中にもあるのを感じて、ちょっと胸が熱くなった。