著者自身、800メートル走の大学代表選手として活躍した経験がある米国人ジャーナリスト。本書執筆時には『スポーツ・イラストレイテッド』誌のシニア・ライターをしていたという。
アスリートとジャーナリスト。二つのまなざしでとらえたスポーツ科学の最先端は、共感にあふれ、かつ客観的で、心を打つエピソードに満ちている。
「1万時間の法則」は本当か
まず冒頭で興味を引かれたのが、「1万時間の法則(あるいは10年の法則)」だ。
「誰がどんな分野のエキスパートになるのにも、必要かつ十分な時間」が1万時間である。つまり、「意図を持った練習」が「1万時間に足りなければ誰もエキスパートになれないが、1万時間に達すれば誰もがエキスパートになれる」。メディアによって喧伝された「法則」が事実か否か、検証することから本書は始まる。
そもそも発端となった論文の内容はどういうものだったか、その後の研究の展開はどうか、さらには、自分自身を実験台にして「1万時間の法則」をテストしているゴルファーの生活まで紹介され、引き込まれる。
技能習得に関するありとあらゆる研究を調べた結果は、じつに興味深い。食料品店のレジ打ちから航空管制業務にいたるまで、複雑な業務は、訓練によって個人差が縮まるどころか、むしろ広がった。
<持てる者はさらに与えられて富み栄え、持たざる者はその持てるものさえも取り上げられるであろう>
「マタイの福音書」の一節に由来する「マタイ効果」が、技能習得にもあるというのだ。
「1万時間の法則」は「誰でも努力すれば夢はかなう」というスローガンのために利用されてきたようなものだった。どんな目的であれ、科学的事実をねじまげることには賛成できない、という著者の態度に私も賛成だ。