――その可能性に懸け、三山さんご自身もホワイトハウスへ2度も訪れていますね。
三山:広島テレビが被爆者や一般市民から集めた1472人分のオバマの広島訪問を熱望する「オバマへの手紙」を携え、2度ホワイトハウスを訪れました。本書第9章には、2度目の訪問の際に、国家安全保障会議の高官に手渡した「オバマへの手紙」特別編の全文を掲載していますが、この時、この高官は手紙に書いた被爆米兵の存在に強い興味を示しました。
――オバマの広島訪問を象徴する写真として世界中に配信されたオバマと抱き合っていた日本人男性、森重昭さんがコツコツと調べてきたことですね。
三山:そうです。森さんは被爆した米兵捕虜12名の名前を日本軍に撃墜された米軍機の搭乗者名簿などから探し出し米国の遺族に連絡。連絡がとれた米兵を広島市へ伝え、現在では原爆慰霊碑に納められている死亡者名簿に加えるという作業を続けられました。森さん自身も被爆しているにもかかわらず、長年地道に調べていたんです。言い方は悪いですが、森さんの活動や米兵被爆者の存在は、オバマの広島訪問への反対が予想される退役軍人や保守派を納得させる一番のカードになるとも思いました。
――被爆した米兵の存在を今回初めて知りました。
三山:アメリカが投下した原爆で米兵も死亡しているという「不都合な真実」は長年、日米両国で「極秘」でした。アメリカでは原爆投下から40年後のレーガン政権時にさりげない形で公表したのですが、一部の研究者を除き、ほとんど知られていません。
私も、同時期にワシントン特派員を務めていましたが、2011年に広島に赴任してから知りました。
――オバマへの手紙はどんな内容が多かったのでしょうか?
三山:大半が、オバマに対し謝罪にはこだわらない内容でした。謝罪にこだわりオバマが訪問しないよりも、こだわらないことでオバマを招きたいという内容が圧倒的でした。
日本政府が直接、被爆者や広島の一般の人たちの声をホワイトハウスに届けることはデリケートな面があり難しいんです。だからこそ、地元のメディアである広島テレビが動いたわけです。元々、メディアという言葉は「medium」の複数形で「媒介する」を意味しますから、その言葉通り動いただけです。
――そもそもなのですが、このオバマへの手紙はどういったキッカケで始まったのでしょうか?
三山:元々は、広島テレビの開局50周年事業として「piece for peace」(平和へのひと筆)というキャンペーンを始めました。これは、広島平和記念公園へ世界中から年間に1千万羽の折鶴が届くのですが、残念ながら飾ることが出来るのはごく一部になってしまい、残りを倉庫に保管しています。この保管された折鶴をなんとかしようということで、市当局が「折った人の平和への気持ちが生かされるなら、再利用することを認めよう」となり、今は化粧筆で有名な広島・熊野町の名産の毛筆で、「心に想う一文字」を書いてもらう企画を始めました。
このキャンペーンが反響を呼び、世界中からの観光客も含め18156文字も集まったのです。そこで、開局記念のキャンペーンで終わらせずに、被爆地広島へオバマに訪問してもらおうということで、「オバマへの手紙」に切り替えたのです。