「オマエ、それでええんか?」
強いチームを目指す野茂は、佐野の行動が効果的でないと判断したのだろう。説教は2時間に及んだ。
「そんなに外に出たいんやったら、俺が連れて行く、ってね。本気で言われたよ。でも、野茂と一緒の方がめっちゃ長かったんやけどな」
6年目のオフには、中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。そんな中、佐野の心は冷めていた。
「野茂もアメリカに行った。阿波野さん、大石さん、新井さん、強かった頃の先輩らがみなおらんなった。チームも弱くなったし、どんどん人が離れていく球団にも不信感が募っていった」
気がつけば、中心選手となっていた。道を正してくれる仲間や先輩はもういない。抑えがきかなくなった佐野の生活は、次第に緩んで行った。
「今思えば、中心選手になって引っ張っていく覚悟がなかったんよね」
7年目の1997年は52試合に登板するも、疲労が蓄積した肘(ひじ)は限界を超え、靭帯(じんたい)を断裂する。佐野は手術に踏み切った。
「でも、正直ホッとしたんよ。ホンマに、やる気が出んかったんや」
1年間のリハビリを終え、翌99年に復帰。完封を記録するなど復活の兆しを見せるものの、佐野の心が全盛期に戻ることはなかった。
9年目のシーズンが終わった。と同時に、電話が鳴った。相手は球団職員だった。
「クビですか?」
「いや、違う」と答えた職員は、明日事務所に来てくれと告げた。トレードだった。翌年から、佐野は中日ドラゴンズでプレーすることとなった。
心機一転、やる気に満ちあふれ、10年目のシーズンを迎えた。しかし、佐野は違和感に気がつく。
「甘えがあったよね。結果を出した選手やから、多少特別扱いしてもらえるやろうって。それが間違いやった」
中日の強力な中継ぎ陣と横一線の勝負を強いられ出遅れた佐野は、取り返そうとするも、ここで近鉄時代に練習を怠ったツケが回ってくる。