2024年6月18日(火)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2016年11月18日

 「オマエ、それでええんか?」

 強いチームを目指す野茂は、佐野の行動が効果的でないと判断したのだろう。説教は2時間に及んだ。

 「そんなに外に出たいんやったら、俺が連れて行く、ってね。本気で言われたよ。でも、野茂と一緒の方がめっちゃ長かったんやけどな」

 6年目のオフには、中継ぎ投手として日本プロ野球史上初の1億円プレーヤーとなる。そんな中、佐野の心は冷めていた。

 「野茂もアメリカに行った。阿波野さん、大石さん、新井さん、強かった頃の先輩らがみなおらんなった。チームも弱くなったし、どんどん人が離れていく球団にも不信感が募っていった」

 気がつけば、中心選手となっていた。道を正してくれる仲間や先輩はもういない。抑えがきかなくなった佐野の生活は、次第に緩んで行った。

 「今思えば、中心選手になって引っ張っていく覚悟がなかったんよね」

 7年目の1997年は52試合に登板するも、疲労が蓄積した肘(ひじ)は限界を超え、靭帯(じんたい)を断裂する。佐野は手術に踏み切った。

 「でも、正直ホッとしたんよ。ホンマに、やる気が出んかったんや」

 1年間のリハビリを終え、翌99年に復帰。完封を記録するなど復活の兆しを見せるものの、佐野の心が全盛期に戻ることはなかった。

 9年目のシーズンが終わった。と同時に、電話が鳴った。相手は球団職員だった。

 「クビですか?」

 「いや、違う」と答えた職員は、明日事務所に来てくれと告げた。トレードだった。翌年から、佐野は中日ドラゴンズでプレーすることとなった。

 心機一転、やる気に満ちあふれ、10年目のシーズンを迎えた。しかし、佐野は違和感に気がつく。

 「甘えがあったよね。結果を出した選手やから、多少特別扱いしてもらえるやろうって。それが間違いやった」

 中日の強力な中継ぎ陣と横一線の勝負を強いられ出遅れた佐野は、取り返そうとするも、ここで近鉄時代に練習を怠ったツケが回ってくる。


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