1軍になかなか上がれず、上がった試合でも1イニング4被本塁打という不名誉な記録を作り、翌日2軍落ちを経験するなど、本来の輝きは失われた。シーズン終了後、体のケアのために東京にいた佐野のもとに、球団代表から電話がかかる。
「来季の戦力としてみていない。明日、球団事務所に来てくれ」
電話を切った佐野は、一言呟(つぶや)いた。
「まぁ、そうゆう世界やな」
半ば意地になって、アメリカへ渡った。どことも契約をしないまま臨んだスプリングトレーニングで、なんとか独立リーグでの契約にこぎつけ、必死にプレーした。そこで、佐野は新たな価値観を得る。
「明日、クビになるかも分からん世界。不安で、野球が楽しくなかった。でも、そこでプレーする若手に言われたんや。『未来のことなんて考えても仕方ない。今、自分の力を信じてやるだけじゃないか』って」
ようやく、佐野は自らの日本での素行を省みた。文句ばかり言って、今やるべきことを何もしてこなかった自分を深く反省した。給料は月に15万円。その中で、佐野はプレーするごとに初心にかえっていった。
渡米2年目の2002年はメキシカンリーグでもプレーし、独立リーグに戻った後、同年オフに日本のプロ野球のトライアウトを受けた。オリックスの入団テストを経て、日本球界に復帰した。
「もう文句は言わんかった。必死に練習することも思い出したしな」
やるべきことをやる。佐野は集中力を取り戻した。しかし、プロの世界は35歳となった当時の佐野には甘くなかった。シーズン終了後、球団本部長に呼ばれ、来季は構想外であることを告げられた。
「次の人生、考えなあかんな。って、思ってる自分に気がついて、『あぁ、辞めなあかんな』って思った」
佐野は引退を選択した。
引退して最初に行ったこと。それは、履歴書を書くことだった。
「職業欄に、何も書けんかったんや。俺は、野球以外何もしていない」
野球しかないが、野球以外のことは聞けばいい。様々な人に会い、仕事を探した。持ち前の明るいキャラクターを武器に、テレビの仕事を中心に仕事は次第に増えていった。
現在48歳。50歳を迎える前に、やるべきことがある。
「腹の底から、もっとできたと思うし、やるべきやった。俺は楽な方に逃げてたんや。絶対に逃げたらあかん。それを、うわべだけでなく伝えていくのが俺の役割やと思う」
強烈な後悔は、未来への動機になる。佐野の野球人生は、まだ終わっていない。
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