さらに大正10年には当時摂政であった昭和天皇が欧州訪問途上にお召し艦の香取と鹿島がマルタに寄港し4月25日に昭和天皇が墓参した旨が記してある。
ネットによると駆逐艦隊はインド洋、地中海で連合国艦船の護衛、ドイツ潜水艦への攻撃に大活躍し連合国の通商路の確保に貢献、しかも危険を顧みず撃沈された艦船の乗員船客を献身的に救助して国際的な称賛を浴びたという。
なぜ日本海軍は遥か彼方の地中海へ赴いたのか
第一次世界大戦は教科書的説明では欧州帝国主義国家間の覇権争いの帰結である。従って主戦場は地中海を含む欧州大陸であり極東の日本にとり“対岸の火事”であり中立を宣言して“傍観”することもあるいは可能であったろう。
ネットの解説によると日本政府は慎重に対処して英国からの西部戦線(当時フランスとドイツの国境近くの戦線は塹壕戦となり膠着状態であった)への日本陸軍派遣要請を再三断っているようだ。他方極東でドイツの勢力下にあった中国の青島・膠州湾、南太平洋の諸島では開戦直後に英国海軍と協力してドイツ極東艦隊を駆逐している。
そしてインド洋でのドイツ潜水艦による通商破壊作戦が始まると英国の要請を受けて第一特務艦隊を派遣し、更には地中海に第二特務艦隊を派遣したのである。日本が軍隊の海外派遣を決断したのは一番目には日本近隣の敵対軍事勢力の排除、二番目に国際的通商ルートの防衛ひいては日本の通商ルート確保という国家防衛戦略のようである。
日本政府、すなわち日本の指導者は当時何を考えていたのか興味深い。第一次世界大戦勃発当時は日本が日露戦争終結後10年も経過していない。おそらく日英同盟のおかげで辛くも日露戦争で“引き分け”に持ち込めたという生々しい教訓が残っており同盟関係維持を優先したのであろうか。