キョロキョロ見回すと、背の高い外国人が地べたに自家製の指輪、ペンダント、ネックレス、ブレスレットなどを並べて売っていました。その外国人となにやらペチャクチャしゃべっている女性の後ろ姿が・・・、姉でした。
「姉さん、何してるの?」と聞くと、「当たり前じゃないの。英会話の練習をしているのよ」。これでは商売をしている外国人の方もたまったもんではありません。
「昭、このあいだ、3回目の世界一周の船旅をして帰ってきたところ。南極でも泳いできたわ。ご覧のとおり、英語もペラペラよ。Thank you.See you again!」と事も無げに言います。
いくつになっても人間は成長できる
主人を亡くし、70歳から英会話と社交ダンスをマスターしようとした動機は、いつか船で世界中を回りたいという気持ちでした。英会話はNHKラジオ・テレビを3年間、テキストをすべて買い込んでマスターし、社交ダンスは練馬区の公民館でマスターです。
80歳の時点で、私は百何十カ国へ行ったことがあると、サラッと豪語していました。少女時代、両親が貧乏だったので、節約の仕方は半端ではありません。しかし、それを年をとってから使えるようになったことは幸せなことです。それも、主人が大学教員であったことで、年金をもらえるからでしょう。
世界一周の船旅のときは、小さい個室を頼み、そこへドサッと春夏秋冬の衣服などを送り、世界中の国々へハンドバック一つで下船し、異国を体で学ぶのが嬉しいようです。
こんなこともありました。日本を出航して1カ月くらいのある日、持病の胆石が悪さをし、痛さで七転八倒しました。お医者さんから「すぐに飛行機で帰り、息子さんに迎えにきてもらって入院しなさい」と言われたのに、「先生、1日痛みをガマンしますから、帰らせないでください。死ぬとき以外は子どもの世話になりたくないのです」と懇願し、痛みが取れたらケロッとして世界一周してきたのです。
姉と私は15歳離れています。私が1936年に生まれたときから子守歌を歌ってくれました。私が東京・王子の荒川小学校に入ったころ、父は60代母は50ちょっと前、姉は兄の友人とおつきあいに入っていました。
姉は、戦後の厳しい経済事情のなか、貧乏学者の妻として、3人の子どもを育て上げました。少女時代の貧乏生活が幸いしたのか、生活苦にへこたれませんでした。
義兄(姉の夫)は姉に理解があり、自分は行かない海外旅行に、活発な姉を、われわれ親族には内緒で、1人で行かせてあげていました。義兄は、姉の海外旅行の出国と帰国の際、空港まで必ず行っていたようです。これらのことは義兄が亡くなった後、姉が私たちに話してくれて初めて知りました。
そういえば、姉がふだん話をする際に、世界五大陸の国々の具体的事柄を、まるで見てきたかのように話すので、私は姉が世界の民俗学にでも興味があるのかとぼんやり思っていました。
義兄が亡くなってしばらくすると、堰を切ったかのように姉の興味は、英語、社交ダンス、ピアノ、歌、琴へと広がっていきました。独立心が強く、誰よりも自分を大切にし、健康を強い意志で守る生き方には感心させられます。
足腰を何度も痛めましたが、そのつど、つらいリハビリに挑戦し、一つひとつ克服しました。昨年、弟(私の12歳年上の兄)の一周忌で、しおれてとても悲しそうにしていたとき、息子(前回登場した私の甥)に「お母さん、どうしたの? きのうは柿の木に登っていたのに・・・」と言われていたのは印象的でした。
ふだん、折りたたみの杖をついて歩いているので、「姉さんどうしたの?」と聞くと、「なんでもないけど“転ばぬ先の杖”を実行しているだけよ」と、自分を守る力は抜群です。
亀井君もしっかりしたお姉さんが二人おられるとのことですが、大正から昭和の初めに生まれた女性のたくましさには感心させられます。私の場合はまさに“ゲゲゲ”の姉です。