まず、築地で主に扱っている魚は他の食料品に比べ遥かに足が早く、しかも日本人は生でも食べるため、毎日市場で大量に取引されることが必要で、何十年間もそれが続いてきたことは決して当たり前のことではない、ということです。この論点は食文化や生活文化に関わってきます。
また、板前さんなどの洗練された技術を持つ人たちがこだわるのは素材の新鮮さですし、その識別能力を競い合う側面もあります。それは板前さん一人ひとりだけでなく、仲卸業者もそうで、個々人の目利きが非常に重要になってきます。毎日毎日コンディションの違う魚がどれだけ仕入れられるのか不透明な状況の中、高級寿司店にはこの魚、スーパーにはこの魚と、鮮魚を様々なレベルへ仕分けることを可能にするのは、大量の仲卸業者と、業界の人間関係で成り立っていると本書では指摘しています。しかも仲卸業者の仕事を大きく左右する市場内での配置は、数年に一度クジで変わり、必ずしも合理的でない空間構造に、いかにして公正と納得をもたらすかという知恵があります。
現在の物流では、中抜きが主流な傾向です。しかし、築地をそのように「合理化」し、もし完全に標準化されたチェーンのマーケットだけにしたら、多様に分化し高度化した食文化は支えきれません。仲卸業者の配置や設備の「合理化」によって、意図せざる帰結として日本の食文化の重要な一側面が失われてしまう可能性があることを本書は示唆しています。
私自身の歌舞伎町への関心でも、あの街が完全に経済効率性だけで出来上がっているわけではなく、細長いペンシルビルを始め、客引きと店舗の持ちつ持たれつの関係などの一見すると非合理な背景の上に成り立っていることに注目しました。本書もまた築地におけるそのような構造が、我々人間の行動や社会秩序にいかに影響を与えているかを鮮やかに示しています。築地もまた、その存在が必ずしも自明ではない、社会の不思議な一部分なのです。
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