「何も分からなかった。日本の暴力団に騙された。覚せい剤を日本に運んでくれと頼まれ、『捕まってもせいぜい1年ほどで帰れる』と言われただけだ」。18キロの足かせを強いられ、中国人囚人しかいない雑居房内では壁に固定された長さ約40センチの鉄の鎖でつながれた森死刑囚。「死刑執行だけは避けたい。執行の連絡が来ないことだけを祈り、毎日一喜一憂している。やはり死にたくない」
森の肉声や拘置所内の悲惨な実態は『週刊文春』(4月15日号)で報じたが、森は単なる「運び屋」であり、しかもこの問題が日本国内で報じられる前の「第一号」だったため、重罪の意識が乏しかったのも無理がないと言えよう。
裁判長の驚きの対日配慮
一連の覚せい剤密輸事件とともに、当時、悪化を続ける日中関係に暗い影を落とした刑事司法問題が福岡市の一家4人殺害事件(03年6月)だった。中国人容疑者3人が犯行に及んだ後、2人が中国に逃亡するという凶悪事件。対日政策で影響力を持った曽慶紅国家副主席(当時)はこう危機感を表した。
「徹底した対応を行いたい。日本にいる中国人留学生がすべてあのような印象を持たれることを深刻に考えている」
さらに森勝男に死刑判決が下された04年。サッカー・アジアカップの反日騒動などが吹き荒れるこの年6月、武田輝夫が広東省で拘束された。中国各地に麻薬入手ネットワークを拡大させ、広東省で拘束された際も覚せい剤3.1キロを所持していた。実に森の死刑判決後も取引を続けていた。
04年11月、大連市中級人民法院(地裁)。中国人共犯者らと共に被告人席に立った武田は覚悟を決めていた。「全部知っているのは私だけだ。死刑になっても構わない」。
中国司法当局としても、密輸「大物」の武田に対して極刑で臨むことは既定路線だった。その一方で、古びた法廷ではもう一つの異様な光景があった。筆者を含めて一部の日本人記者に傍聴が認められること自体も異例の対応だったが、裁判長が閉廷後、「日本の記者は残ってほしい」とわれわれに歩み寄った時は驚きを隠せなかった。そして黒い法服を脱ぎ、こう声を掛けたのだ。
「暖房の悪い中、お疲れ様でした。裁判はこれからも公開するので連絡して下さい」。明らかに日本の対中感情を意識した計画的行動だった。
そして森の控訴審公判が始まったのは、靖国問題で悪化した日中関係が改善に向かっていた07年2月までずれ込む。中国刑事訴訟法196条は「二審の裁判所は(一審)控訴を受けてから1カ月以内に結審しなければならず、遅くとも1カ月半を超えていけない」と明記。一審判決から3年間も公判が開かれないのは異例であり、「対日関係に配慮した政治的判断があった」(中国筋)という。
大量の死刑執行と死刑囚の臓器移植問題にメス
07年前後、中国司法当局内で、司法問題に絡む二つの敏感な「暗部」にメスが入っていたことはあまり知られていないだろう。
当時の胡錦濤指導部の最大目標は、08年8月の北京五輪を控え、中国に友好的な国際環境を整えることであった。そして欧州を中心に国際社会が批判を強めていたのが、中国の大量の死刑執行と、死刑囚の臓器を使った移植だった。