日本で最初に映画が輸入され、公開もされたのは神戸である。明治29年のことである。亡くなった映画批評家の淀川長治(1909〜98年)はこの神戸の出身であるが、かつてのこの街を日本でいちばん都会らしい都会だったと誇っていた。横浜とならんで西洋の最先端の趣味に直結する港町だったからである。だからその批評も、粋で都会的でセンスがいいということを大事にしていた。
神戸出身の俳優はじつに多彩である。杉良太郎は神戸の劇場経営者の息子だった。高島忠夫は琵琶師の息子である。芦屋の出身の林与一も関西歌舞伎の役者一家の出であって、こうしてみると関西の伝統的な芸能の世界の地盤の豊かさも感じられる。高島忠夫は関西学院の学生時代からジャズに熱中していて、のちにミュージカルで才能を伸ばした。神戸は関西の芸能文化圏の重要な一角なのである。隣接する西宮出身の内田裕也も、大阪でロックのバンドを結成して注目されてから、あとで強烈な個性を発揮する演技者にもなる。
宝塚に歌劇団が出来てたくさんの女優を育成したことも、関西の芸能文化の伝統と現代とを結ぶものだったかもしれない。ここには日本全国から才媛が集ったが、兵庫県内からは神戸の大先輩の葦原邦子(1912〜97年)と春日野八千代に南風洋子(1930〜2007年)、鳳蘭。西宮からの寿美花代。淡路島からの大地真央などがいる。宝塚歌劇は男と対等にハキハキ自己主張が出来て、しかも女性として大いに魅力的であるという新しいタイプの女優を大量に育成して映画界にも送り出してくれた。これは女性のイメージを進歩させて日本文化に相当貢献するものだったと言っていい。
宝塚市といえば、元気のいいお兄さんという役どころの山本太郎もここの出身だ。女だけの都ではない。
「赤目四十八瀧心中未遂」(2003年)は尼崎の下町を強烈なタッチで描き出した力作だったが、「伝七捕物帖」シリーズなどで人気のあった高田浩吉(1911〜98年)は、まだ市ではなく村だった尼崎出身である。トーキー初期に歌う時代劇スターとして評判になったが、現代もので「家族会議」(1936年)の関西の株屋の社員の好演は忘れられない。いま第一線の人では南果歩も尼崎だ。
「夫婦善哉」の織田作之助原作の小説を名匠川島雄三が映像化。辰巳柳太郎演じる人力引きの他吉と彼を巡る人間模様を描いた、スケール感溢れる人情傑作。
「わが町」(1956年)のベンゲットのターやんという労務者など古風で豪快な庶民を演じると絶品だった辰巳柳太郎(1905〜89年)は赤穂。「七人の侍(1954年)」の元侍大将や「生きる」(1952年)の主人公の市役所の課長など、黒澤明の諸作品の重厚な演技で不滅の存在となっている志村喬(1905〜82年)は生野。渡哲也と渡瀬恒彦の兄弟は淡路。「渡る世間は鬼ばかり」の物分かりのいい親父さんなど、人情喜劇にいい味を出す藤岡琢也(1930〜2006年)は姫路。
監督でひとり、友人だったのでぜひ書いておきたいのが相生出身の浦山桐郎(1930〜85年)である。名作「キューポラのある街」(1962年)をはじめ、貧しさにめげない健気で鮮烈な青春を繰り返し描いたが、郷里のこの町で父親を失ってとつぜん貧しくなった少年時代の経験がその土台にあると言っていたことが忘れられない(次回は兵庫県編その2)。