書き手の時代ではなく、受け取り手の時代
しかし、今回の筒井康隆氏の炎上を見て、違う感想を持った。
筒井氏は4月5日にツイッター上でこうつぶやいた。「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」。これは、筒井氏のブログ「偽文士日碌」の一文だ。筒井氏は炎上後にツイートは削除したが、ブログの記述は残ったままだ。
韓国では出版社が筒井氏の著作について販売中止を決定するなど影響が出ているが、本人は朝日新聞の取材に対し、「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」と語ったという。
ツイッター上では筒井氏のファンと思われる複数のユーザーが、「これで騒いでいるのは筒井康隆を読んだことのない人たち」といったつぶやきをしていた。筒井氏の「ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう」という発言と同様の内容だが、これは反論する方にしてみれば、過去にどんな作品を作っていようが「ダメなものはダメ」「面白くないものは面白くない」だろう。批判者の全てが筒井氏の作品を読んでないという決めつけも乱暴な言い方。
また、筒井氏の読みが甘いのではないかと感じる部分がある。奢りと言ってもいいかもしれない。
前述した通り、ツイッター上の好意的な拡散に関しては「何を言ったかではなく、誰が言ったか」なのだが、反対にツイッター上の炎上に関しては「誰が言ったかではなく、何を言ったか」である。いくら筒井氏が過去にブラックユーモアにあふれた不謹慎な作品、もしくは反権威的な作品を書いていたところで関係ない。言い換えれば、発信者が「何を伝えたかったか」よりも、受け取り手が「どう受け取ったか」が重要である。このことが良いか悪いかはさておき、今現在、ツイッター上にこの空気があることは確かだ。
今や受け取り手の方が強いのだ。一昔前のように、作家の権威が通用しづらい。(そもそも今の10代は、ユーチューバーよりも作家に権威がある時代があったことを知っている人の方が少ないかもしれない)。余談ではあるが、だから多くの作家はツイッターをやらないし、やっても知名度に比べフォロワー数が多くないのではないかと感じている。
ちなみに、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」でツイートが拡散される場面は他にもう一つある。デマツイートである。震災時などのデマは、発信者が誰だかわからなくても、大量に拡散されてしまうことがある。たいがいの場合、デマを指摘するツイートよりも、デマの方が多数拡散されてしまう。
「誰が言ったか」にしろ、「何を言ったか」にしろ、それだけ判断される風潮を嘆くのは容易い。「誰が何を言ったか」で判断される時代ではないことを知り、有象無象からどう叩かれても書くモチベーションを持つものだけが生き残れる時代だと感じる。モチベーションと言えば聞こえはいいが、図太さと鈍感さがあればそこそこ生き残れるのだとしたら、これほど悲しいことはない。
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