一緒に泊まり込むことになった50代の母親によれば、首筋と両手足を切って川に飛び込んだのだが運よく救助されたという。
「何ですかね、厭世観らしいんですが」
母親は穏やかで上品な人だったが、とても話し好きでさかんに我々に話しかけた。
対して患者の息子の方は徹底して無口だった。いや、無口というよりも、同室の私はもちろん、付き添いの母親に対してもまともに反応せず、ほとんど無表情だった。
母親が、自分の娘時代を過ごした戦前の台湾のことを私に話していると、突然ガバッと半身を起こし、虚ろな声で呟く。
「巨人が、負けた…」
気になるのはプロ野球と競馬の話題のみのようだった。
「他人には関係ない」「将来なんて見えてる」「何もかも面倒」……。
脈絡なく、そんな言葉を吐き出した。
そうこうするうちに、私の体力は次第に回復してきた。摺り足ならば、一人でトイレに行ってどうにか用を足せるようになった。
洗面所で歯を磨いていると、私の後にトイレに入った片足ギブスの男が出てきた。
「新顔か。これ位でも切ったのか?」
角刈りの男からは酒の臭いが漂った。
並んだ男が指を開いたので曖昧に頷いた。
「ちぇっ! そんなの何でもねぇよ。俺なんかほら、見てみろよ」
角刈りがパジャマの裾をめくると、引きつったような手術痕がみぞおちからヘソを縦断してパンツの中へと続いていた。
「体中傷だらけ、けどへっちゃらさ」
私は2、3度頷いた。男は再び舌打ちし、片足で跳び歩きしながら廊下の奥に去った。
入院から13日目。とうに退院しているはずだが、妻が上京の用意のためいったん実家に帰ったため、私はまだ病院にいた。
しかし、退院は時間の問題。下界に慣れるため、久々に外に出てみることにした。
新緑から洩れる陽光が眩しかった。
病院の前の桜の木々はいつの間にか葉桜になっていた。つぼみ前に入院し葉桜で退院だから、この年は桜を見なかったことになる。
その間に、自分が多少変わった気がした。
私は陽光に押し潰されないよう、ゆっくりと駅に向かった。股の間に懐炉でも挟んでいるような生温かい違和感があった。
筋肉の動きを確かめながら歩く。
駅前通りには大勢の人々が行き交っていて、誰もが明るい春の色の服装だった。
少し息苦しさを覚え、洋菓子店に入った。
若い女子店員に声をかけられ、思わずケーキを3個買ってしまった。
「ニューファミリー」とは団塊世代の友だち夫婦の作る、旧世代とは違う平等な価値観の家庭らしい。そうであれば、私と妻の新家庭も当てはまるかもしれないと思った。
私は家族分のケーキを抱え、誰も待つ人のいない病室へとりあえず戻ることにした。
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