まずは社会人教育を行おうと、講演会を何度か開催した。だが、来場するのは防災意識の高い、ごく一部の市民ばかりで、広がりに欠けた。その他大勢の無関心層に訴えるため、私は学校教育を糸口にできないかと考えた。
防災教育を毎年受けた小中学生は、いつか成人となり、家庭を持ち、結果的に社会全体の底上げにつながる。子どもを通じて、親や地域社会に教育の成果が広がることも期待できる。
早速、私は市内のとある小学校を訪ね、管理職クラスの先生に防災教育の実施を提案したが、反応は冷ややかだった。英語授業や総合学習への対応に忙殺されて余裕がない、というのが理由だった。また、津波とは関係のない内陸部出身の先生が多かったこともあり、危機感が薄かった。
そこで当時の釜石市教育長に直接相談した。教育長は地元の出身であり、昭和三陸大津波の被害を実際に経験していたことから、防災教育の必要性を理解してくれた。そして、学校の先生への教育が必要だという結論に至り、平日の午後、全校を休校扱いにして、空いた時間帯に教諭向けの防災講演会を実施する機会を与えてくれた。
先生方に私が訴えたことは、防災意識が不十分な今の釜石に育つ子どもたちは、今のままでは次に襲来する津波から逃れられないということだ。そして、その津波は彼等の一生のうちにほぼ必ず襲来するという事実である。自分の命を守ることが何にも増して重要なことと感じ取ってくれた多くの教員が、私の呼びかけに応じてくれ、先生方との連携で防災教育のテキスト開発と授業研究が各校で始まった。
「家で親を待つ」と答えた子どもたち
こうして津波防災教育が始まったのは06年。最初に行ったのは、子どもへのアンケートだ。
「家に1人でいるとき大きな地震が発生しました。あなたならどうしますか?」と質問した。ほとんどの回答は、「お母さんに電話する」「親が帰って来るまで家で待つ」というものだった。
私はそのアンケート用紙に、「子どもの回答をご覧になって、津波が起きた時に、あなたのお子さんの命は助かると思いますか?」という質問文を添付し、子どもたちに、家に帰ってから親に見せるように指示した。
大人たちは、行政や防災インフラに頼ることで、前述したように油断していた。親の意識が変わらなければ、いくら学校で子どもに教えても効果は半減する。だから、「わが子のためなら」という親心に訴えようと考えた。
この試みは奏功した。その後、親子で参加する防災マップ作りや、避難訓練の実施に繋がったからだ。完全に集計しきれてはいないが、今回の津波で、釜石市内の小中学生の親で亡くなった人の数は31人(4月5日現在)と、釜石市全体で亡くなった人の割合と比較しても少ない数が報告されている。親の意識改革は、子どもへの教育浸透を助けるだけでなく、親自身への一定の波及効果もあったのではないか。
数学の時間にも津波教育を盛り込む
授業では、津波に対するリアリティーを持ってもらうことを最初の目的にした。祖父母から津波の話を聞いているが、自分の身に降りかかる出来事とは思っていなかったからだ。