五十嵐:ローカルのコミュニティの中で誰とも話せない、ある話題がタブーになるということが、さまざまな分断が長引いている元凶だと感じています。原発事故の汚染が危険だと思っている人たちの間でも、安全だと思っている人の間でも、その議論はやっぱりタブーになる。身近なところで気軽に話せないから、認知が固定化したり、ネット上の不確かな情報を真に受けていくという面もあると思うんですよね。これは被災当事者のみならず、医療関係者、教育関係者、避難者支援団体など、僕が出会った相談者の多くも指摘するところです。リアルでは話す場がないけど、ネット上では同じ不安を持つ人と繋がれる、話せなかった不安を話すとその不安に何がしかの「根拠」を与えてくれる人がいる、そこで抑圧からの解放感を得て、そこを自分の居場所だと感じていく、そしてその一部はさらに運動にもコミットしていく、というサイクルです。
富永:『脱原発をめざす市民活動』で示されたデータでは、2011年から13年2月にかけて、被災地支援やエネルギーシフトをめぐる運動は減少しているのに、健康リスクに関する運動だけはそれほど減少していないんですよね。それだけ孤立感があり不安を共有したいという思いが強く、不安と知識を共有する人々とのコミュニティを保持したかったのだと思って読みました。
五十嵐:そう思います。放射線防護のことを一生懸命勉強したという人ほど、「自分はこれほど勉強したんだ」という思いがあるから、7年経っても2011年当時と同じようなことを言っている人を見ると歯がゆくなる。「同じところにとどまっている人」とみなしてしまうんですよね。だからどうしても言葉も強くなるんでしょうけど、それは不安を抱えた人とのコミュニケーションとしては、目指すべきものと逆方向なんだと思います。それに、新米ママや福島県への転入者など、あらたにゼロから情報を求めている方もいますしね。
「批判するなら対案出せよ」のメンタリティ
五十嵐:ただ、ここは強調したいところなんですが、福島県内で安全だと確信をもって暮らしている人が、「危険だ」「汚染されている」と外部から言われたら、腹が立つのは当たり前ですよね。その人たちが腹立ちを公言することまでいけないのかと言われたら、僕にはそうは言えない。
その中で、「脱原発運動が政治的目的のために、科学的なリスクを踏まえない発信を繰り返して、結果的に差別者になっている」というロジックはすごく浸透しました。だから、社会運動っていうのは欺瞞的だ、ひいては脱原発運動に親和的だった政党すべてが信用に足りない、そうなっている人は一定数いるのだと思います。少なくとも僕の本を読む人より多いです(笑)。