2024年4月20日(土)

対談

2018年8月2日

富永:小熊英二先生のご本『原発を止める人々 3・11から官邸前まで』には50人ほどの運動参加者が寄稿していて、脱原発の立場から健康リスクに言及されている人も16人いるのですが、多くの語りにおいて政府批判、マスメディア批判と健康リスク問題が関連する形で論じられています。この段階では、まだ二つの課題を切り分けて扱ってはいないという印象です。

 3・11以降の脱原発運動は、イシューの扱い方に関してはかなり慎重で、シングルイシュー、マルチイシューをうまく使い分けていたり、「反原発か脱原発か」といった点にも非常に配慮していた。ただ、健康リスクの問題については、メディアや政府批判といった他の課題から切り分けて、運動の外に対して表現するための準備ができていなかったのではないかなと考えています。

富永京子さん

五十嵐:なるほど。

富永:もうひとつあるとすれば、健康リスクを問題にする人を運動に駆り立てるのは、孤立感であることが多いんですよね。『原発を止める人々』の語りでも、周りが分かってくれない、「気にしすぎだ」と言われる、そんな孤立感から路上に出たり運動に参与する人がいます。私が調べた限りそれは脱原発運動だけではなく、安保法案の抗議行動でも見られた現象でした。周囲の人と政治の話ができない、でも、安保法制によって自分の生活がどう変わるか不安だ、という。

五十嵐:それはよくわかります。学生が教員の政治思想を忖度した答案を書いたことの、いわば裏返しですよね。

富永:ただ、政治の話ができない、戦争に対する不安が共有できない孤立感よりも、健康リスクは今そこにある、生活に深く突き刺さった孤立感ですよね。その人たちが路上に出て危機感を共有できれば、安心できるでしょう。その感情自体は否定のしようがないと思います。

タブーがコミュニティを分断する

五十嵐:このあたりかなりセンシティブな議論になってしまうのですが、「福島で暮らす人たちはデマを拡散してまで福島の危険を強調する人たちに差別されている」という思いを持っている人は、実際にかなりいます。たしかに、一部消費者の福島県産品の買い控えや、そこに端を発して市場で買い叩かれる例は少なくなっているとはいえまだあり、そこには差別があるということはできる。

 でも、ローカルに目を転じれば、福島県内であれ柏市内であれ、「地元の食品を食べたくない」と言う人たちは震災以降ずっとマイノリティで、子供の給食などをめぐって、抑圧されてきたという思いを持っている側なんです。その不安を口にしたら、バカにされるかもしれないし、非難されるかもしれないから容易に口に出せない。つまり、差別や抑圧というのは、科学的な正否とは別軸のものだという大前提の上で、抑圧と被抑圧は場面や文脈によって入れ替わりうるんですね。

富永:私は住民運動の専門家ではないのですが、住民運動の研究でもそうした構図はよく目にします。開田奈穂美さん(東京大学大学総合教育研究センター特任助教)という方が長崎県の諫早湾干拓事業に関する研究をされているのですが、この事業は農地造成のために漁業地(諫早湾)を干拓する、いわば農業者と漁業者の対立として捉えられてきた。この文脈でいうと、農業者の漁業者に対する抑圧ということですよね。ただ、実際はそうではない、と開田さんは主張するわけです。

 例えば漁業者のなかでも、抗議行動を起こす人々がいる一方で、漁業被害を受けているにもかかわらず事業推進を表明し、干拓事業や補償事業を請け負う人々が存在する。彼らは決して自らの生業を放棄したわけではなくて、「工事を早く終わらせて海をもとに戻す」という考え方のもとに事業推進の立場をとった。ただ、補償を受け続けていくうちに、優遇措置や補助金へと依存してしまい、結果としてもとのような生活再建ができなくなってしまう。

 抗議行動に参加する人も、補償金を受けて事業推進をする人も、実は同じく「海を守りたい」という論理で動いているわけですが、抗議行動をしている側から見ると、そうでない人は巨額の補償狙いに見えてしまう。おそらくはこうした認識のすれ違いが、コミュニティ内における分断を生んでしまいかねないというのは想像がつきます。


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