オトナの教養 週末の一冊

2018年8月17日

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本多カツヒロ (ほんだ・かつひろ)

ライター

1977年横浜生まれ。2009年よりフリーランスライターとして活動。政治、経済から社会問題まで幅広くカバーし、主に研究者や学者などのインタビュー記事を執筆。現在、日刊サイゾーなどに執筆中。ブログ:http://golazo-sala.cocolog-nifty.com/pinga/

――そこから、「身体ではなく言語で、正しい思考の道筋を示せば、世の中をよくできる」といった、いかにも知識人的な態度を疑い出したということですか?

與那覇:そうですね。そもそも世界的に見ても、インテリ層は「言語」の力で社会的な地位を得ているので、「言葉で分析できる俺たちは優秀」「言葉にできず身体的欲求だけで動くやつらはバカ」のように考えがちです。

 平成の日本でいうと「マニフェスト」みたいに、しっかり言語で公約を表明させれば政治がよくなるんだと、そういう主張が進歩的に見えたのも、ルーツは同じですね。

――だから、身体だけで動くヤンキーは「反知性主義だ」と指摘して、自分たちの方が上だという印象を作り出し、片づけてしまいがちだと。しかし、それでは本来の意味での反知性主義とは何でしょうか?

與那覇:広く読まれた森本あんりさんの『反知性主義』(新潮選書)を参照すると、反知性主義の根源は宗教改革までさかのぼれます。当時主流派だった、「身体」に働きかける儀礼を重んじるカトリックを、「言語」による聖書の読解をもとに批判したプロテスタントは、正統に挑戦する人々という意味では反知性主義だと言える。むしろ言語をベースにした、「反正統主義」としての反知性主義ですね。

 ただ日本の場合はキリスト教世界に比べて、言語で徹底的に「どちらの考え方が正統なのか」をぶつけ合って結論を出す伝統が弱く、江戸の儒学史の一コマくらいにしかありません。たとえば、最近まで憲法学界は「自衛隊は違憲だ」という論文(言語)を量産してきたけど、政治家も国民も身体感覚ではそんなこと信じてない。つまり「言語による正統化」という試み自体の、基盤が弱いんですね。

 だからもう一段階、意訳をして、反知性主義とは「アマチュアリズム」のことだと捉えたほうがよいかもしれません。つまり、プロの学者は信用できない、アマチュアこそプロが見落としたことを知っている、という発想です。

――そうした「アマチュアの優位」を説く現象とは、具体的には?

與那覇:平成の前半に盛んだった、「新しい歴史教科書をつくる会」の運動は典型でしょう。当否はともかく、彼らは「プロ(歴史学者)の書く歴史だけがそんなに偉いのか」と主張していた。だから、学者の側が「あの人たちは学界で認められてないですよ!」と反論しても、沈静化するはずがない。その点を見抜いてきちんと対応された批判者は、生前の網野善彦さんだけではないでしょうか。

 しかも皮肉なことに、事実認識としてさすがに直さないとマズい箇所をプロの学者が(批判の形で)全部教えてあげるものだから、いつのまにか「つくる会」の教科書が普通に検定を通るレベルになり、使う学校も徐々に増えてゆく結果になった。錚々たる歴史学界のプロたちが、自覚なくオウンゴールを決め続けた姿は、平成における「知識人の失敗」を象徴するようにも思えます。

――今日の日本の反知性主義は、いつ頃からの流れと考えていますか?

與那覇:戦後(昭和)の後半から平成の初頭までは、むしろ知識人のアイデアが社会をよりよく変えるという期待が、高まった時期だったと思います。革新自治体の首長には、左派系の大学教授が多かったし、対峙する自民党でも大平正芳・中曽根康弘といった首相がブレーン政治を展開して、一定の成果を出しました。その流れを受けて平成の初頭には、政治学者が音頭を取って「小選挙区制による二大政党化」をめざす大改革が実現しました。

 ところが一方で、同じ時期から「霞が関バッシング」が吹き荒れます。銀行と癒着してバブル崩壊の破局を招いたとされて、大蔵省(現在の財務省)が炎上し、「今までいばってたけど、東大卒のエリート官僚ってどうなの?」という雰囲気が、社会に広まっていきました。

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